足守陣屋
●地図● 岡山市北区足守 2010年8月14日(訪問日:2010年8月1日)
◆概要◆
足守藩祖・木下家定はもとは杉原姓でしたが、実姉が豊臣秀吉の正室でした。 そのため、豊臣秀吉の一族として処遇され、木下、続いて羽柴、豊臣姓を与えられ、菊花紋と五七桐紋を使用することも許されていました。 豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦では2万5千石を領有する姫路城主で、ねねを守護して中立の立場をとりました。 徳川家康の天下となった後の1601年3月、備中国賀陽郡と上房郡内に同じ石高で移封され、足守藩を立藩しました。 木下家定が1608年に死去した後、徳川家康が長男・木下勝俊と次男・木下利房の2人に遺領を継ぐよう命じました。 しかし、ねねが木下勝俊1人に相続させようとしたため、翌年領地を没収されて浅野長晟が藩主となりました。 浅野長晟はその後和歌山藩に転出し、足守は幕府の直轄領となりました。 大坂夏の陣で徳川家康の幕下に属していた木下利房が戦後再び足守藩主に封じられ、以後明治に至るまで13代続きました。 明治維新後に跡地は旧制女学校、公民学校、青年学校、新制足守中学校などに転用されました。 最後に使われていた足守小学校のプールと足守幼稚園が移転した後、1995年に公園として整備されました。(現地案内板より)


堀跡

足守藩侍屋敷

木下権之助屋敷表門