ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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鳥取城
2010/8/8記
(2010/7/31訪問)

仁風閣と三階櫓の石垣
 
●概要●
戦国時代中頃に但馬山名氏が築いたとされる。山名氏は但馬山名氏と因幡山名氏に分かれて争っていたが、因幡山名氏の家臣・武田高信が徐々に力をつけた。武田氏は主家を滅亡寸前まで追い詰めて因幡国を掌握したが、尼子氏の残党と組んだ山名豊国に破れ、和議の場で謀殺された。その後は毛利氏と尼子氏残党、山名氏による争奪戦が繰り広げられたが、羽柴秀吉による「鳥取渇殺」により終止符が打たれた。その後、江戸時代に城主となった池田氏により30万石にふさわしい城として大改修を受け、総石垣の城となった。明治時代に入り建造物は全て破却されたが、明治40年に皇太子の宿舎として建てられた仁風閣が現存している。また、三の丸跡は現在、鳥取西高校の敷地となっている。

●歴史●
天文年間
(1532〜54年の間)
但馬山名氏(山名祐豊)が築いたとされる。
1545年 因幡山名家家臣・武田国信が久松山城(後の鳥取城)を改築。あまりに堅固なため謀反の疑いを受け、謀殺された。
1563(永禄6)年 武田国信の子・高信が城主となり、主家である山名家と争う。一時は因幡国を完全に支配した。
1573(天正元)年 山名豊国の攻撃を受けた武田高信は和議を結ぶが、豊国により謀殺された。
同年、吉川元春に攻められ豊国は降伏。毛利豊元が城主となる。
1574(天正2)年 尼子氏の残党が攻め降伏。
1575(天正3)年 芸但和睦で毛利氏の力が鳥取に直接及ぶようになると尼子氏の残党は鳥取城を退去。山名豊国が城主となる。
1580(天正8)年 羽柴秀吉の第一次鳥取城攻め。3か月の籠城の末降伏。
山名豊国は織田信長に臣従した。
同じ月の内に毛利軍が攻め込み、再度降伏。牛尾重春が城主となる。
1581(天正9)年

3月、毛利家重臣・吉川経家が城主となる。
4月、山名豊国は織田へ密使を送るが内通が発覚。豊国は秀吉の下へ出奔する。
7月、羽柴秀吉により「鳥取渇殺」と呼ばれる兵糧攻めが始まる。
10月25日、城主・吉川経家が自刃し降伏。
宮部継潤が城代となる。

1585(天正13)年 宮部継潤は九州征伐の功績により、因幡・但馬5万石を与えられ鳥取城城主となった。
1600(慶長5)年 宮部継潤の跡を継いだ長房は関ヶ原の戦いで西軍についたため改易される。
池田長吉が6万石で入城し、近世城郭に改修した。
1617(元和3)年 池田光政が32万5千石で入府。
1632(寛永9)年 岡山の従兄弟・池田光仲と領地を入れ替わる。以後12代続いて明治を迎える。
1877(明治10)年 中仕切門を残して城内の建築物は破却された。
1907(明治40)年 皇太子(後の大正天皇)の山陰行啓宿舎として仁風閣が建てられた。
1975(昭和50)年 中仕切門が再建された。
2005(平成17)年 史跡鳥取城跡附太閤ヶ原保存整備基本計画が始まった。これは30年の歳月と51億2千万円をかけ、幕末期の姿へ復元する計画である。2015年までに中之御門大手門登城ルート、追って御三階櫓等を復元する予定。


箕浦家武家門

吉川経家像

堀と大手御門跡、久松山

大手登城路

中仕切門

天球丸から見た表御門と菱櫓の石垣

鳥取城周辺案内図(クリックで拡大)

●100名城スタンプ設置場所● 2016/2/21現在
城内にある「仁風閣」
開館時間 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日 毎週月曜日(祝日の場合は開館)
祝日の翌日
年末年始

※仁風閣の休館日は、スタンプは鳥取市役所の1階総合案内にある。
入館料 大人150円、高校生以下無料

●地図● 鳥取市東町
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