ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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石神井城
2011/11/5記
(2011/8/13訪問)

城址碑

●概要●
石神井城は鎌倉時代末期から室町時代中期までの間、豊島氏が拠点としていた城である。北の三宝寺池、南の石神井川を天然の堀とし、その間にある台地の両端を堀切で断ち切って中央部分を城とした。全体では9ha程の規模であったと推定されている。豊島氏は秩父平氏の系統であり、同族に畠山氏、河越氏、江戸氏などがある。彼らは秩父党という武士団を形成していた。豊島氏は早くから源頼朝に加勢し、鎌倉幕府設立に大きく貢献して勢力を伸ばした。一族からは奥州藤原氏討伐の功により奥州総奉行に任じられた葛西氏が出ている。この他に練馬氏、板橋氏、平塚氏などの庶流が派生し、武蔵国一円を支配する大勢力となった。石神井城が築かれたのはこの頃である。その後、豊島氏は他の秩父一族である河越氏、江戸氏らととも平一揆と呼ばれ、足利尊氏に味方して新田義貞と戦った。室町時代に入り、上杉禅秀の乱(1416年)では鎌倉公方について江戸氏とともに戦功第一とされ、上杉禅秀の遺領を与えられた。鎌倉公方は足利将軍家が関東を支配するために設置され、関東管領は鎌倉公方を補佐する役職であるが、任命権は室町幕府が握っていたため、彼らはしばしば対立した。1439年には、足利持氏が関東管領・上杉憲実と争って敗れ討ち死にした(永享の乱)。持氏の遺児・成氏が許されて鎌倉公方を再興すると、早速関東管領・上杉憲忠を暗殺してしまった。以後、持氏は鎌倉を追われて古河に移り「古河公方」と呼ばれるようになる。豊島氏は関東管領・上杉氏側につくが、古河公方に対抗するため、関東管領・上杉氏は扇谷上杉氏の家宰・太田道灌に命じて河越城、岩槻城、江戸城などを築かせた。これは豊島氏の領地を囲むような配置であり、後に豊島氏と太田氏が対立する要因となったと考えられている。その後、1476年に関東管領・上杉氏の内紛で長尾景春が反乱を起こすと豊島氏は景春に味方をした。豊島氏の領地は扇谷上杉氏の本拠・河越城と太田道灌の江戸城を地理的に分断する位置にあった。石神井城の豊島泰経は平塚城の弟・豊島泰明とともに挙兵したが、太田道灌に江古田・沼袋原の戦いで大敗して泰明が戦死し、石神井城も落城した。泰経は翌年、平塚城で挙兵したものの敗れて小机城へ逃れたが、小机城も太田道灌に攻められて行方不明となり、豊島氏は滅んだ。現在、城跡は石神井公園となっており、三宝寺池の南側にある主郭では土塁や堀切がよく残っている。遺構保護のため立ち入ることはできないが、フェンス越しによく見える。

●歴史●
鎌倉時代後期
(1300年頃)
豊島氏により築かれたと考えられている。
1477(文明9)年 太田道灌に攻め落とされ廃城となる。
1959(昭和34)年 三宝寺池周辺が整備され、石神井公園となった。


三宝寺池

土塁

●地図● 東京都練馬区石神井台

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