ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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石浜城
2013/1/13記
(2011/8/13訪問)

石濱神社

●概要●
石浜城の築城年代および築城者は不明。1456年に市河城を追われた千葉宗家の千葉実胤が武蔵に落ち延び、太田道灌に石浜城を与えられた。地理的には隅田川を挟んで下総国と隣接しており、戦略的な意図があったと思われる。1455年の享徳の乱で千葉氏が扇谷上杉派と古河公方派に分裂。戦いの結果、扇谷上杉派で千葉家の16代当主・千葉胤直とその嫡男・胤宣、胤直の弟・胤賢が討ち取られた。生き残った胤賢の子・実胤と自胤は市河城に籠ったが翌年敗れ、太田道灌を頼って武蔵に落ち延びた。その後、幕府から派遣された東常縁が古河公方派の原胤房と馬加康胤を攻め滅ぼしたが、馬加氏の支流・岩橋孝胤が本佐倉城を築いて千葉氏を名乗り抵抗を続けた。千葉実胤は戦には向かない性分であったらしく、1462年に隠遁。弟の千葉自胤が家督を継ぎ石浜城へ移った。まもなく帰参した実胤は赤塚城に移されたとみられている。自胤の子孫は下総の地を取り戻すことができなかったため、以後は「武蔵千葉氏」と呼ばれる。自胤は自ら太刀を振るう勇将であり、太田道灌が遠征する際は江戸城の守備を任される程であった。だが、太田道灌を暗殺した後の扇谷上杉氏は没落の一途を辿り、1510年頃から伊勢宗瑞(北条早雲)により武蔵の地を侵食されていった。1524年には江戸城が北条氏綱により攻め落とされており、武蔵千葉氏はこの時に北条氏の配下になったと考えられる。武蔵千葉氏は北条氏のもとでも活躍したが、豊臣秀吉による小田原征伐で所領を没収され滅亡した。城は隅田川沿いにあったと推定されているが、氾濫を繰り返しており正確な位置は特定されていない。城跡と伝わる場所には石浜神社があり、自胤の子・守胤が建立した真先稲荷も境内にある。石浜神社も洪水や開発のたびに遷座を繰り返している。

●歴史●
1456(康正2)年 太田道灌により千葉実胤に石浜城が与えられる。
1462(寛正3)年 千葉実胤が隠遁したため、弟の千葉自胤が家督を継いで石浜城に移る。
まもなく帰参した実胤は赤塚郷に移る。
1479(文明11)年 千葉自胤は太田道灌とともに千葉孝胤の臼井城を陥落させるが、上杉氏の内紛に巻き込まれて下総を掌握することができず。
1483(文明15)年 古河公方・足利成氏と室町幕府が和睦。千葉孝胤の下総支配が確定する。
1504(永正元)年 立河原の戦いで扇谷上杉朝良が大勝。しかし、直後に山内上杉顕定に味方した越後守護代・長尾能景により武蔵の大半を攻め落とされる。以後、扇谷上杉氏への軍事支援を口実に伊勢宗瑞(北条早雲)が武蔵に勢力を拡大する。
1510(永正7)年 伊勢宗瑞が扇谷上杉氏の重臣に離反を勧めていたことが発覚。
扇谷上杉氏は山内上杉氏と古河公方の助力で伊勢宗瑞討伐を開始。
1512(永正9)年 永正の乱。山内上杉氏と古河公方それぞれで内紛が発生。
扇谷上杉氏は為す術もなく武蔵を伊勢宗瑞に侵食されていく。
1524(大永4)年 江戸城が扇谷上杉氏を破った北条氏綱の支配下に入り、遠山直景が城代となる。
武蔵千葉氏はこの時に北条氏の配下になったと考えられる。
1590(天正18)年 豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡。千葉氏も所領を没収され廃城となる。

●地図● 東京都荒川区南千住3丁目

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