ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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赤塚城
2013/1/12記
(2011/8/13訪問)

本丸跡

●概要●
赤塚城が築かれた年代は不明だが、源頼朝が徳丸を通過した際に立ち寄った記録があり、鎌倉時代初期には赤塚氏の記録があるため、その頃には赤塚氏が支配していたと考えられる。赤塚郷は京都嵯峨・鹿王院の荘園であったが、豊島氏の一族・赤塚氏が実効支配していた。だが、1455年の享徳の乱が終わると、赤塚郷は太田道灌により下総を追われた千葉氏嫡流の千葉実胤・自胤兄弟に与えられた。享徳の乱での豊島氏の動向は不明だが、近隣の平塚城や滝野川城などは豊島氏の一族が1477年まで支配しており、おそらく赤塚郷の領主だけが古河公方側に加担して敗れたと考えられる。千葉兄弟の兄・実胤は1462年に隠遁したため、弟の千葉自胤が家督を継ぎ石浜城へ移った。まもなく帰参した実胤は赤塚城に移されたとみられている。自胤の子孫は下総の地を取り戻すことができなかったため、自胤以後は「武蔵千葉氏」と呼ばれる。自胤は自ら太刀を振るう勇将であり、太田道灌が遠征する際は江戸城の守備を任される程であった。だが、太田道灌を暗殺した後の扇谷上杉氏は没落の一途を辿り、1510年頃から伊勢宗瑞(北条早雲)により武蔵の地を侵食されるようになった。1524年には江戸城が北条氏綱により攻め落とされており、武蔵千葉氏はこの時に北条氏の配下になったと考えられる。武蔵千葉氏は北条氏のもとでも活躍したが、豊臣秀吉による小田原征伐で所領を没収され滅亡した。城跡は本丸が都立赤塚公園として整備され、城址碑と説明板が設置されている。

●歴史●
鎌倉時代 豊島氏の一族・赤塚氏が支配していた。
1456(康正2)年 太田道灌により赤塚郷が千葉自胤に与えられる。
1462(寛正3)年 兄・千葉実胤が隠遁したため、自胤が家督を継いで石浜城に移る。
まもなく帰参した実胤が赤塚に移る。
1471(文明3)年 千葉実胤は古河公方に接近して千葉介を継ごうとするが、千葉孝胤(実胤の父を滅ぼした馬加氏の一族)の反対により失敗。失望した実胤は、一族で親交のあった東常縁を頼って美濃へ隠遁。
1479(文明11)年 千葉自胤は太田道灌とともに千葉孝胤の臼井城を陥落させるが、上杉氏の内紛に巻き込まれて下総を掌握することができず。
1483(文明15)年 古河公方・足利成氏と室町幕府が和睦。千葉孝胤の下総支配が確定する。
1504(永正元)年 立河原の戦いで扇谷上杉朝良が大勝。しかし、直後に山内上杉顕定に味方した越後守護代・長尾能景により武蔵の大半を攻め落とされる。以後、扇谷上杉氏への軍事支援を口実に伊勢宗瑞(北条早雲)が武蔵に勢力を拡大する。
1510(永正7)年 伊勢宗瑞が扇谷上杉氏の重臣に離反を勧めていたことが発覚。
扇谷上杉氏は山内上杉氏と古河公方の助力で伊勢宗瑞討伐を開始。
1512(永正9)年 永正の乱。山内上杉氏と古河公方それぞれで内紛が発生。
扇谷上杉氏は為す術もなく武蔵を伊勢宗瑞に侵食されていく。
1524(大永4)年 江戸城は扇谷上杉氏を破った北条氏綱の支配下に入り、遠山直景が城代となる。
千葉氏はこの時に北条氏の配下になったと考えられる。
1590(天正18)年 豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡。千葉氏も所領を没収され廃城となる。

●地図● 東京都板橋区赤塚5丁目

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