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ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・

そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。

そして気が付いたら全国津々浦々(笑)

これまでに訪問したお城を紹介します。




滋賀県のお城
安土城(あづち)近江八幡市
大津城(おおつ)大津市
大溝城(おおみぞ)高島市
小倉城(おぐら)東近江市
小谷城(おだに)長浜市
柏原城(かしわばら)米原市
柏原御殿(かしわばら)米原市
鎌刃城(かまは)米原市
観音寺城(かんのんじ)近江八幡市
久徳城(きゅうとく)犬上郡多賀町
坂本城(さかもと)大津市
佐和山城(さわやま)彦根市
島川城(しまかわ)愛知郡愛荘町
膳所城(ぜぜ)大津市
高野瀬城(たかのせ)犬上郡豊郷町
高宮城(たかみや)彦根市
種村城(たねむら)東近江市
長浜城(ながはま)長浜市
那須城(なす)犬上郡豊郷町
鯰江城(なまずえ)東近江市
八幡城(はちまん)近江八幡市
彦根城(ひこね)彦根市
三雲城(みくも)湖南市
水口城(みなくち)甲賀市
水口岡山城(みなくちおかやま)甲賀市
三田村城(みたむら)長浜市
箕浦館(みのうら)米原市
宮部城(みやべ)長浜市
目賀田城(めかた)愛知郡愛荘町
簗瀬城(やなせ)東近江市
吉田城(よしだ)犬上郡豊郷町






佐和山城
2009/12/5
(2009/11/23訪問)

城址碑
●概要●
佐和山城を築城したのは鎌倉時代の豪族・佐保氏とされる。美濃との国境にある上、近江の南半分が手に取るように見える要地であったため、戦国時代には六角氏と浅井氏が激しい争奪戦を繰り広げた。元亀年間(1570年頃)には浅井氏の家臣・磯野員昌が織田信長と激戦を繰り広げたが降伏し、代わって織田氏の家臣・丹羽長秀が入城して近江国支配の拠点とした。本能寺の変後は、堀秀政に与えられ、その後、堀尾吉晴が入城した。1590(天正18)年には五奉行の一人である石田三成が入城し、山頂に五層の天守を築くなど大規模な改修を実施。「治部少に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われるほどであった。だが、1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れると、小早川秀秋が先鋒となり佐和山城を猛攻撃。城兵は健闘したが、一部の兵が裏切って敵を引き入れたため落城。三成の一族は滅びた。徳川方の兵士は財宝目当てに乱入したが、城の壁は粗壁であり、質素な造りであったという。三成邸から出てきたのは豊臣秀吉からの感謝状のみであったと伝わっている。戦後は徳川四天王の一人・井伊直政が入城した。直政は石田三成の居城であったことと中世的な縄張りが気に入らず、新たに彦根城築城を計画した。しかし、直政は築城に着手できないまま死去したため、嫡子の直継が彦根城築城を開始。佐和山城や大津城、小谷城などの築材を利用して彦根城が完成した。1606(慶長11)年に直継が彦根城に移ったため、佐和山城は廃城となった。建造物は彦根城に移築したり破却されたため城跡には残っていない。彦根城が丸見えのため徹底的に破却されているが、石垣と土塁の一部などがわずかに残っている。

●歴史●
鎌倉時代 豪族・佐保時綱により築城されたといわれている。
1571(元亀2)年 2月に浅野家臣・磯野員昌は織田信長に降伏。丹羽長秀が入城した。
1582(天正10)年 本能寺の変の後、明智討伐に功があった堀秀政が城主となる。
1585(天正13)年 堀尾吉晴が城主となる。
1590(天正18)年 石田三成が入城。五層の天守を築くなど大規模な改修工事を行った。
1600(慶長5)年 関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は佐和山城を猛攻撃した。
城兵は健闘したが、一部の兵が裏切って敵を手引きしたため落城。
石田三成の一族は皆戦死・自害して果てた。
戦後、徳川四天王の一人・井伊直政が入城。
1602(慶長7)年 井伊直政は関ヶ原の戦いの時の鉄砲傷がもとで死去。
1606(慶長11)年 井伊直継が完成した彦根城に移ったため、佐和山城は廃城となった。

本丸跡

僅かに残っている石垣

佐和山城絵図

本丸跡からは彦根城がよく見える

佐和山遊園にある模擬天守

●地図● 滋賀県彦根市佐和山

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