ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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難波田城
2016/3/3更新
2011/5/22記
(20115/5/22訪問)

水堀と木橋

●概要●
難波田城は入間川と新河岸川に挟まれた自然堤防上に築かれた。周辺には湿地帯が広がり最大の防御の要としていた。当初は難波田氏の館であったが、戦国時代に3重の堀を巡らせるなど大規模な改修が加えられた。北条氏滅亡と同時に廃城となり、江戸時代には修験寺院である十玉院が建立された。明治になり十玉院は廃寺となり、城址周辺も開発されていった。城址は昭和36年に埼玉県旧跡に指定され、平成9年より3年かけて部分的に復元された。

●歴史●
1221(承久3)年 承久の乱で戦功のあった金子氏に恩賞として難波田の地が与えられた。
金子氏は姓を難波田と改めて当地を治めた。
1546(天文15)年 河越夜戦で難波田憲重が討死。
難波田の地は北条氏家臣・上田氏に与えられた。
1590(天正18)年 豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏が滅亡し、廃城となる。
江戸時代初期 城跡に修験寺院である十玉院が建立された。
1872(明治5)年 修験道廃止令により廃寺となった。
2000(平成12)年 公園として復元・整備された。


追手門(復元)

石碑

土塁

公園案内図と浅野文庫古城図(クリックで拡大)

●難波田氏●
鎌倉時代(1221年)にあった「承久の乱」で武蔵七党の1人・金子小太郎高範が討死した、その恩賞として高範の子孫に難波田(南畑)の地が与えられ、当地に館を構えて地名を名字として名乗ったのが難波田氏の始まりと考えられている。戦国時代には扇谷上杉氏に仕え、次第に勢力を拡大する北条氏と何度も対峙した。1537年4月27日に扇谷上杉朝興が河越城で死去。北条氏綱はこれを好機と捉え河越城を攻撃し、上杉軍は大敗して総崩れとなった。朝興の死後家督を継いだ上杉朝定は、河越城を捨てて難波田憲重の松山城に退却した。北条氏綱は松山城まで追撃したが、城代・難波田憲重の奮戦で落城には至らなかった。 この時に寄手の山中主膳と有名な「松山城風流合戦」の挿話を残した。河越城奪回を目指す扇谷上杉朝定は、山内上杉憲政、古河公方・足利晴氏ら和解し、1545年、北条綱成の河越城を8万とも言われる大軍で包囲した。だが、1546年4月20日、北条氏康の奇襲により敗北し、扇谷上杉朝定が討死して扇谷上杉氏が滅亡した(河越夜戦)。この時、難波田憲重も奮戦したが、古井戸に落ちて凄惨な討死を遂げたという。

●案内●
  難波田城公園 難波田城資料館
営業時間 4〜9月 9:00〜18:00
10〜3月 9:00〜17:00
9:00〜17:00
休み 年中無休 月曜日(祝日を除く)
祝日の翌日(土日祝日を除く)
年末年始
入場料 無料

●地図● 埼玉県富士見市下南畑
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