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河越館
●地図・アクセス● 埼玉県川越市上戸(河越館跡史跡公園) 2017/6/24更新(訪問日 2014/12/14)
◆概要◆
河越館跡は、河越氏の館があった時期、常楽寺の寺域だった時期と山内上杉氏が陣を構えた時期の3つの時期があります。

河越氏が館を築いたのは平安時代末頃です。 河越氏は秩父党の惣領を務めた大族で、河越重頼の娘の響御前が源義経に嫁いでいます。 1185年に源義経が討伐されると河越重頼が連座して粛清されたため、河越氏は一時没落しました。 源義経との婚姻を河越氏に命じたのは源頼朝であったため、河越重頼誅殺後は河越重頼の妻で出家した河越尼に河越荘が返却されました。 しかし、名主や農民が河越尼に従わなかったため、あらためて源頼朝が荘務一切を河越尼に従うよう命じています。 河越氏の家督は河越重頼の次男・重時が継ぎ、以後も武蔵の名族として続きました。

南北朝時代の1368年、河越氏は武蔵平一揆の乱で鎌倉公方・足利基氏に敗れ、滅ぼされました。 平一揆は観応の擾乱では足利尊氏に味方していました。 足利尊氏の没後、鎌倉公方の足利基氏は観応の擾乱に敗れて追放されていた上杉憲顕を関東管領として呼び戻しました。 すると、観応の擾乱で敵対していた畠山国清や宇都宮氏綱らが挙兵したため、足利基氏により討伐されました。 この時、河越氏をはじめとする平一揆は、足利基氏の命令でかつて従った畠山国清を攻めています。 ライバルを討伐した上杉憲顕は、足利基氏が没した翌年に武蔵平一揆の粛清しました。 河越氏が滅ぼされた後、館の片隅にあった常楽寺が寺域を拡大しました。

山内上杉氏が河越館跡に陣を構えたのは、河越城を本拠とした扇谷上杉氏を攻めた時です。 発掘調査の結果、山内上杉氏が陣を構えた時期に大量の板碑が井戸に投棄されていたことが判明しています。 1486年、山内上杉顕定は扇谷上杉定正に讒言し、扇谷上杉家の重鎮・太田道灌を謀殺させました。 以後、山内上杉氏と扇谷上杉氏は争うようになります(長享の乱)。 両家が関東で争っている間に、扇谷上杉氏に援軍を送っていた北条早雲が次第に関東で勢力を増しました。 北条早雲は扇谷上杉氏に味方して山内上杉氏の伊豆・相模の拠点を次々に陥落させていたのでした。 しかし1504年、北条早雲は甥の今川氏親とともに、扇谷上杉氏を攻める姿勢を見せ始めました。 そのため、1505年に両上杉氏は争いをやめ和睦し、北条早雲に対抗することとなりましたが・・・。 西側の土塁は、山内上杉氏が陣を構えていた時期の遺構と考えられています。


図(北が上になるようにして文字を拡大しました)

駐車場側から見た史跡公園

北側の入口付近に説明付のモニュメント

河越氏の館の堀跡

井戸跡

河越氏の館の堀跡

南西の信号付近に説明板があります

西側の土塁

土塁の北西隅

城址碑