ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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淡輪城
2011/10/26記
(2011/8/1訪問)

土塁
 
●概要●
鎌倉時代の初め頃に土着した淡輪氏が館を築いたのが始まりとされている。淡輪氏は義経四天王の1人・佐藤忠信の子孫と伝わる。忠信は奥州藤原氏に仕えていたが、源義経が源頼朝の平家討伐に参戦する際、藤原秀衡の命により兄・継信とともに義経に従った。以後、義経の片腕として活躍したが、義経が頼朝と対立して追われる身となると囮として京に残り、潜伏していた中御門東洞院で討ち果てた人物である。忠信の子・小治郎重治は淡輪の地に地頭として任官し、その子孫が淡輪氏を名乗った。淡輪氏は南和泉の有力豪族として南北朝時代に活躍した。だが、戦国時代に仕えた豊臣秀次が謀反の疑いにより切腹させられると連座し没落。その後、徳川氏と豊臣氏が雌雄を決した大坂の陣では兄弟で敵味方に分かれた。戦に勝ち生き残った淡輪徹斎の長子・新兵衛重利は紀州浅野氏の家臣となって家名を保った。現在、城跡は住宅地となっているが、畑の一角に土塁や堀跡などの遺構が残されている。

●歴史●
元久年間
(1204〜6年の間)
佐藤忠信の子・小治郎重治が淡輪の地に地頭職として定住する。
1595(文禄4)年 仕えていた豊臣秀次が切腹。淡輪徹斎は娘・おこよが秀次の妾であったため連座させられ、所領を没収された。


現地説明板(道沿いにあり目印になる)
ここより南東一帯の約1500平米の敷地は「城の藪」と呼ばれ、この地を領した淡輪氏の邸跡であった。淡輪氏の祖父で戦死した佐藤忠信の子小治郎重治で、元久年間1204年頃この地に地頭として住みついたものとされている。南北朝の戦乱の世に功があったことが淡輪文書に残っている。戦国時代、淡輪徹斎の女「おこよ」は豊臣秀次の妾となって小督(ここ)の局と呼ばれたが、秀次の死に連座して三条河原で斬首された。また徹斎の次男六郎兵衛重政は大阪夏の陣の前哨戦「樫井川の合戦」(元和元年=1615年) で塙団右衛門とともに壮烈な死を遂げた。

(写真の現地説明板より)

●地図● 大阪府泉南郡岬町淡輪
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