ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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千早城
2011/8/7記
(2011/8/1訪問)

千早神社
●概要●
金剛山中腹にある支脈に築かれた山城で、金剛山山頂方向以外は急斜面に囲まれている。登城口からの比高は150mある。山の至る所に要塞を築いており、中心部は5つの曲輪から成る。金剛登山口から石段を登った所にある細長い広場が四の丸であり、三の丸、二の丸を経て本丸に至る。上赤坂城の詰めの城として築かれ、楠木正成が鎌倉幕府の討伐軍をゲリラ戦法で翻弄したことで有名である。幕府軍は全国各地の守護から構成されていた。しかし、千早城での戦いに幕府の主力が釘付けにされている間に全国の有力御家人が後醍醐天皇の倒幕の綸旨に賛同し、新田義貞により鎌倉が攻め落とされて鎌倉幕府は滅亡した。足利尊氏が後醍醐天皇に背いて南北朝時代が始まるが、楠木氏は終始南朝側として活動した。1392年に北朝側の畠山基国に攻められて落城し、楠木氏は吉野十津川へ逃れた。

●歴史●
1332(元弘2)年 楠木正成により築かれる。
1333(元弘3)年 鎌倉幕府による討伐を受けるが、奇襲により100日間幕府軍を翻弄する。
1392(明徳3)年 楠木正勝の時に北朝方の畠山基国に攻められ落城。廃城となる。

●千早城の戦い●
1331年、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を計画した。だが、密告によって幕府の知る所となり、宮中にまで軍勢が押し寄せた。宮中から難を逃れた後醍醐天皇は山城国笠置山で挙兵。後醍醐天皇の息子・護良親王も吉野で挙兵し、楠木正成もこれに同調した。だが、後醍醐天皇は幕府軍に敗れて隠岐島へ流され、楠木正成は下赤坂城で自害したと見せかけて姿をくらませた。
1332年11月、楠木正成は千早城で挙兵し、護良親王も吉野で同調した。正成は上赤坂城を奪還し、天王寺で六波羅勢を撃破するなどしたため、鎌倉幕府は正成討伐の大軍を差し向けた。太平記では幕府軍100万に対して楠木軍は1000人足らずであったという。幕府軍は上赤坂城を落城させ、その勢いで千早城にも攻め寄せた。だが、千早城は地形が急峻な上に城内に水源もあり、上赤坂城のように攻め落とすことはできなかった。この時正成のとった戦法としては、藁人形に鎧を着せて背後から鬨の声を上げ、攻め寄せた幕府軍に大石を落としたり、幕府軍が急峻な崖にかけた巨大な梯子に火をかけた火攻めなどがある。正成は地形を利用したゲリラ戦法で約3ヶ月もの間幕府軍を翻弄し続けた。この間に後醍醐天皇は隠岐島を脱出して倒幕の綸旨を発し、播磨国の赤松則村、肥後国の菊池武時、関東の新田義貞などが蜂起した。このため千早城を包囲していた幕府側の守護は次々に帰国したが、新田義貞により鎌倉が攻め落とされて、鎌倉幕府は滅亡した。この時、幕府側にいた足利高氏(のちの尊氏)も反幕府側に転じ、京の都を制圧している。


登城口(石段)

城址碑

四の丸にある藁人形

現地案内図(クリックで拡大)

●アクセス●
国道309号→府道705号、または国道310号→府道214号→府道705号
金剛登山口に有料駐車場あり(1日1回600円)
登城口から 石段(約600段)から約30分、千早本道から約20分

●地図● 大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早

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