ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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安威城
2012/3/24記
(2011/8/4訪問)

城址碑と説明板
 
●概要●
安威城の築城年代は不明であるが、鎌倉時代より安威氏が当地を治めているようで、当時から館は存在していたと思われる。規模は東西に180m、南北に270mほどで、北の花園山にある安威砦が詰めの城であった。戦国時代には他の摂津の豪族同様、安威氏も細川氏や三好氏の内紛に巻き込まれるが、安威氏は所領を守り続けた。その後、豊臣秀吉に仕えた安威了佐は秀吉からの信頼が厚かったようで、秀吉の直轄地となった茨木城の城代に任命された。この時に安威城は廃城になった。現在、城跡は摂津の他の城跡と同様に住宅街となっているが、城域の北東に150m、南にも土塁が残存している。また、写真の天王文庫の前には城址碑と説明板が設置されている。

●歴史●
1363(貞治2)年 「六波羅密寺文書」に安威氏について記載がある。
永正年間
(1504〜21年)
摂津国守護である細川氏より安威右近太夫が所領を安堵される。
1527(大永7)年 2月 波多野稙通に攻められ落城。以後、安威氏は細川晴元に仕える。
1549(天文18)年 6月 江口の戦いでは、安威弥四郎は長慶方として戦い勝利。
1571(元亀2)年 5月 和田惟政が安威城を攻め落とし、安威勝宗は所領を奪われる。
8月 池田21人衆方として和田惟政と戦って勝利し、旧領を回復する。
1586(天正14)年 安威五左衛門了佐が茨木城の城代となり、安威城は廃城となる。

●安威氏が巻き込まれた戦い●

1527年 桂川原の戦い
管領・細川高国が讒言を信じて香西元盛を切腹させると、元盛の兄である波多野稙通と柳本賢治が高国に叛き挙兵した。この時の安威氏は高国の配下であったため、高国のいる京を目指す波多野稙通の軍勢に芥川山城、太田城、 茨木城、 福井城 、三宅城とともに攻め落とされた。この戦いは波多野氏が勝利し、高国は将軍・足利義晴を連れて近江・坂本へ落ち延びた(桂川原の戦い)。安威氏は波多野氏に同調して挙兵した細川晴元の配下となる。晴元は堺で義晴の弟・足利義冬を立てて堺公方が誕生した。

1549年 江口の戦い
細川晴元の家臣・三好長慶は実力で台頭したが、晴元は長慶の同族・三好政長を重用していた。摂津国の国人・池田信正が切腹させられたが、これは政長の讒言によるものであった。そこで、長慶は晴元に政長の討伐を願い出たが却下されたため、長慶は晴元と敵対していた細川氏勝側について政長討伐の兵を挙げた。この時、安威氏は長慶方として戦っている。長慶は政長を江口城で討ち取って大勝し、追撃を恐れた晴元は将軍・足利義晴を連れて近江・坂本へ落ち延びた。この戦いでの勝利により、三好長慶が管領となった。

1571年 白井河原の戦い
当時の安威氏は三好三人衆の配下であったが、織田信長配下で摂津三守護の一人・和田惟政に安威城を攻め落とされ、所領を奪われた。その頃、同じく摂津三守護の一人である池田勝正も三好三人衆と戦っていたが、荒木村重を筆頭とする池田21人衆により追放された。勢力拡大を図る荒木村重は和田惟政を攻め、安威氏も同調した。この戦いでは池田衆の兵力が2,500人だったのに対して和田勢は500人とかなりの兵力差があったが、退却を勧める家臣の進言を無視して突撃し、惟政は壮絶な討死を遂げた。この戦いで村重が勝利したことにより、安威氏は旧領を回復した。その後、もう一人の摂津三守護・伊丹親興を攻め滅ぼした村重は織田信長の家臣となり、摂津守護に任命されることとなる。

●地図● 大阪府茨木市安威2丁目

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