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ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・

そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。

そして気が付いたら全国津々浦々(笑)

これまでに訪問したお城を紹介します。




沖縄県のお城
安慶名城(あげな)うるま市
伊計城(いけ)うるま市
伊祖城(いそ)浦添市
糸数城(いとかず)南城市
伊波城(いは)うるま市
浦添城(うらそえ)浦添市
大里城(おおざと)南城市
御物城(おもの)那覇市
垣花城(かきのはな)南城市
勝連城((かつれん)うるま市
具志川城(ぐしかわ)糸満市
具志川城(ぐしかわ)うるま市
具志頭城(ぐしちゃん)八重瀬町
越来城(ごえく)沖縄市
座喜味城(ざきみ)読谷村
佐敷城(さしき)南城市
首里城(しゅり)那覇市
勢理城(じり)八重瀬町
多々名城(たたな)八重瀬町
玉城城(たまぐすく)南城市
知念城(ちねん)南城市
知花城(ちばな)沖縄市
中城城(なかぐすく)北中城村
今帰仁城(なきじん)今帰仁村
名護城(なん)名護市
南山城(なんざん)糸満市
真壁城(まかべ)糸満市
三重城(みい)那覇市
八重瀬城(やえせ)八重瀬町
山田城(やまだ)恩納村
屋良城(やら)嘉手納町
屋良座森城(やらざむい)那覇市





山田城
2012/12/16記
(2012/6/30訪問)

護佐丸父祖の墓
●概要●
山田城は代々読谷山按司の居城であり、護佐丸が座喜味城へ移る前まで居城としていた。尚巴志とともに北山を攻め滅ぼした後、護佐丸は南西約4kmの所に座喜味城を築いた。その際に山田城の石を運び去ったため、城跡にはほとんど何も残っていない。国道58号に山田城跡を示す案内看板が1枚あるが、その先に何も案内が無いため位置はとてもわかりづらいが、交差点の正面に見える小山が城跡である。城の脇に「歴史の道 国頭方西海道」が通じ、城跡の中腹には護佐丸の祖父一族の墓がある。

●歴史●
14世紀初め 読谷山按司・護佐丸が居城としていた。
1416年 護佐丸は尚巴志の今帰仁城攻めに参加し勝利する。
1420年頃 護佐丸が座喜味城を築く際に山田城の石材を利用したため廃城となった。


国道58号の交差点から見た遠景

交差点脇にある旧集落の説明板1

民家の脇にある国頭方西海道の説明板2

この道の左側が城跡

護佐丸盛春(ごさまるせいしゅん)

世界遺産である座気味城や中城城を築いた築城の名手として有名。曾祖父は先今帰仁城主であったが、怕尼芝に滅ぼされた。その息子が読谷山按司(山田城主)と伊波按司(伊波城主)であったが、読谷山按司には跡継ぎがおらず、伊波按司の2男を養子とした。その息子が護佐丸である。生年は不明だが、1390〜93年の間で諸説ある。1416年に尚巴志が北山討伐を行ったが、20代前半の若武者であった護佐丸が第2軍の総大将に抜擢された。護佐丸はこの戦いで今帰仁城を陥落させる大功を立てた。戦後、北山を監視する目的で座気味城を築いたが、その際に居城・山田城の石を用いた。座気味城は貿易港も擁しており、経済的な面でも第一尚氏王朝を支えていた。尚巴志は伊波按司の娘(護佐丸のいとこ)を妃とし、姻戚関係を結んだ。1430年に勝連城の茂知附按司が勢力を拡大したため、警戒した尚巴志は護佐丸に中城城を修築させた。尚巴志が崩じた翌1440年、護佐丸は王命により中城城へ移った。その後、1454年に志魯・布里の乱により江洲を守っていた尚布里が死亡。乱後、越来を守っていた尚泰久が王位に就いたため、勝連城への備えは護佐丸のみとなった。勝連城ではクーデターにより阿麻和利が城主となっていた。阿麻和利の勢力は貿易によりますます拡大していたため、王朝は懐柔策として、尚泰久王の娘・百度踏揚を阿麻和利に降嫁した。この頃は王が在位5年程で崩じる事態が続き、王族内での王位継承をめぐる争いが絶えなかった。そのため地方に対する統制がとれておらず、有力按司達による勢力争いも頻発していた。この状況の中、護佐丸は当然の事ながら軍事調練を行っていたが、この機を逃さず阿麻和利が「護佐丸が謀反の準備をしている」と讒訴した。これを信じた尚泰久王は阿麻和利を大将として中城城を攻めさせた。城を取り囲む兵が王朝軍であることを知った護佐丸は、抵抗らしい抵抗をすることなく自害して果てた。そのため、忠義を貫いた勇将として現在でも人気がある。

●地図● 沖縄県県国頭郡恩納村山田
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