ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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撫川城
2010/8/14記
(2010/8/1訪問)

撫川知行所総門
 
●概要●
撫川城は泥沼の地に築かれた典型的な「沼城」である。城の平面形状は東西77m、南北57mの長方形であり、幅15mの濠がぐるりと巡っている。西半に高さ4mの高石垣と東半には土塁が現存している。また北西隅には櫓台と思われる石垣が張り出している。この城は1559年に備中成羽城主・三村家親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれている。備中高松の役では毛利方の国境防衛の城「境目七城」の1つとなり、当時の城主・井上有景と秀吉軍との間で激戦が交わされた。その後は宇喜多の支配下となり廃城となったが、江戸時代に戸川氏の領するところとなった。戸川氏は4代・安風で断絶するが、その弟・遠富が撫川領分を継ぎ、庭瀬城の本丸と二の丸に知行所を設けた。撫川城と庭瀬城とは呼び分けられているが、もともとは一体の城であった。なお、入口に現存する門は、撫川知行所総門を明治になって現在地に移築したものと伝えられている。(現地案内板より)

●歴史●
1559(永禄2)年 備中国の三村家親が備前国の宇喜多直家に備える為に築く。
1575(天正3)年 三村氏が毛利氏に滅ぼされ、井上有景が城主となる。
1582(天正10)年 羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際に、毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、城主の井上有景が死守する。
戦後は宇喜多氏の領有となり廃城となる。
1679(延宝7)年 庭瀬藩4代藩主・戸川安風が早世。弟の戸川達冨が跡を継ぎ、5,000石を知行する。陣屋は撫川城を中心にした場所に設けた。

●地図● 岡山市北区撫川
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