ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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備中松山城
2016/2/21改訂
2008/6/9記
(2007/8/21訪問)

現存天守
 
●概要●
12ある現存天守(江戸時代以前に建造された天守を有する城郭)の1つ。重要文化財に指定されている。現存12天守では唯一の山城であり臥牛山にある。日本三大山城の一つ。本丸・二の丸・三の丸は標高430mの小松山に階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。江戸時代の備中松山藩では山城が不便なため、山麓の御根小屋で藩の政務を行った。

●歴史●
1240(仁治元)年 備中有漢郷の地頭となった秋葉重信が大松山に城を築く。
1331(元弘年間) 高橋宗康が小松山まで城を拡張する。
城主は時代と共に上野氏、庄氏と変遷する。
1560(永禄3)年 三村家親が毛利氏の援軍を得て庄氏より備中松山城を奪う。
子の三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となる。
1575(天正3)年 備中兵乱。
三村元親は織田信長に寝返るが、小早川隆景により落城し自害。
備中兵乱後、毛利氏の領有となる。
1600(慶長4)年 関ヶ原の戦い後、徳川幕府が城番として小堀正次を置く。
麓に御根小屋が築かれる。
1617(元和3)年 池田長幸が入城。6万3千石で立藩。
1641(寛永18)年 2代目・長常に嗣子なく廃絶。
備後福山藩主・水野勝成の家臣が城番となる。
1642(寛永19)年 水谷(みずのや)勝隆が5万石で入封。
1681(天和元)年 2代目・勝宗により大修築が行われ、現在の姿となる。
1693(元禄6)年 3代目・勝美が無嗣子で死去。末期養子が認められず廃絶。
赤穂藩主・浅野長矩の家老・大石良雄が城番となる。
1695(元禄8)年 安藤重博が6万5千石で入封。
1711(正徳元)年 安藤信友が美濃国加納藩へ転封。石川総慶が6万石で入封。
1744(延享元)年 石川総慶が伊勢国亀山藩へ転封。板倉勝澄が5万石で入封。明治時代まで8代続く。
1862(文久2)年 7代目の藩主・板倉勝静が老中となる。
1868(慶応4)年 戊辰戦争では松山藩は朝敵とさなる。
新政府は近隣の岡山藩などに対し松山への攻撃を命じた。
執政であった山田方谷は無血開城し、領民を救った。
1873(明治6)年 廃城令により御根小屋は取り壊された。
山上にあった天守は忘れ去られ、次第に荒廃。
1929(昭和4)年 松山城保存会発足。
1939(昭和14)年 天守閣の解体修理と二重櫓と土塀の補修に着手。翌年完成。
1941(昭和16)年 国宝保存法に基づく国宝に指定。
1950(昭和25)年 文化財保護法により重要文化財となる。
1956(昭和31)年 11月7日、国の史跡に指定される。
1994(平成6)年 本丸の復元整備が行われた。


切り立った石垣

復古図(クリックで拡大)

●備中の兵乱●
 戦国時代、庄氏と三村氏は備中松山城を巡って激しい争奪戦を繰り広げていた。 両氏の争いは、備中国内の覇権争いであると同時に、尼子氏対毛利氏という大勢力同士の代理戦でもあった。 三村家親は、毛利氏の助勢により勢力を伸ばしていったが、やがて備前の宇喜多直家と衝突するようになる。 毛利元就が尼子氏を滅亡させた1566(永禄9)年、家親は宇喜多直家の刺客により暗殺された。
 この頃、上洛を果した織田信長は天下布武による全国制覇に乗り出していた。やがて織田軍は西に勢力を伸ばし、毛利軍と激突を繰り返すようになる。京を追われた足利義昭は毛利氏を頼り、宇喜多氏と組ませて信長を討つ策に出た。
 家親の子・三村元親は1571(元亀2)年に備中松山城を奪い返して勢力拡大を図っていたが、後ろ盾であった毛利氏が宇喜多氏と提携してしまった。このことで備前への勢力拡大を阻まれただけでなく、仇敵・宇喜多直家と協力せざるを得なくなった。
 この状況を知った信長は、宇喜多直家の討伐を口実に毛利氏から離れ、織田方につくよう誘った。 宇喜多氏には明禅寺の弔い合戦で大敗を喫し、斉田城合戦では実兄の穂田元資が討たれていた。この誘いを好機と捉え、元親は毛利氏から離反した。
 これに毛利氏は激怒し、元親を大軍で攻めたてた。小早川隆景ら八万余騎の軍勢は次々と支城を落とし、元親の実弟で鬼身城主・上田実親を自刃させた。 要害堅固な備中松山城は無理に力攻めせず、長期包囲作戦をとった。長引く篭城戦はジリジリと将兵の士気を奪い、内通する者も出るようになっていった。 1575(天正3)年5月22日、敗色濃厚となり、元親は家臣の説得に応じて降伏。松連寺で自刃し三村氏は滅亡した。 享年22歳。死の間際、毛利方の立会人に「此度の離反は宇喜多氏への怨念から。断じて毛利を裏切り致した訳ではない」と伝えたという。

●山中鹿之助●
 山中鹿之助は尼子氏に仕え、数々の武功を上げ勇名を馳せていた。月山富田城落城後は度々尼子氏再興の兵を挙げ、尼子家旧臣団の中心人物となった。羽柴秀吉が播磨を攻略する際はその先峰となり、最前線の上月城の守備を任された。毛利の大軍に攻められた際は篭城しよく耐えたが、援軍の織田軍が撤退したため落城。「願はくは、我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈り、主君・尼子勝久に許しを得た上で捕虜となった。しかし、毛利輝元が陣を構えていた備中松山城へ護送中、阿部の渡しで討たれた。享年34歳。これにより尼子氏再興の活動は完全に消滅した。

●山上の城●
 城は険しい山上にあり、戦時には堅固な砦となったが、平時は不便な場所であった。普段武士達は麓に居住し、藩の政務は御根小屋で行われていた。松山藩では「城」といえば御根小屋を指しており、小松山にあった城は「山城」と呼ばれていた。江戸時代、山城には山城番数人が足軽番所に常駐し、警備に当たっていた。明治の廃城令で御根小屋は棄却され、跡地には県立高梁高等学校が建っている。現在も石垣や庭園等が残っており、当時の面影を偲ぶことが出来る。
 明治の廃城令以後、山上にあった城は荒れるに任せていた。建物は傷み、天守閣と二重櫓は草木に覆われながら辛うじて残っていた。1929(昭和4)年、歴史ある山城を保存しようと松山城保存会が発足。1939(昭和14)年に高梁町が天守閣の修理に着手。1940(昭和15)年に修理完了。翌年には国宝に指定されたのであった。

●100名城スタンプ設置場所●
天守1階

●案内●
開城時間 4月〜9月 9:00〜17:30
10月〜3月 9:00〜16:30
休城日 12月29日〜1月3日
入城料 大人300円、小中学生150円

●アクセス●
電車 JR備中高梁駅より徒歩で約60分。
高梁市内循環バスで「松山城登山口」バス停まで10分、徒歩約20分。
観光乗合タクシーあり。片道430円。
※1人でタクシーに乗ると片道で約2000円
城見橋公園に駐車し、そこからふいご峠までシャトルバスに乗る。シャトルバスは15分間隔で往復300円。運行時間外はふいご峠まで自家用車の通行可。ふいご峠から天守まで徒歩で約20分。

●地図● 岡山県高梁市内山下

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