ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

なぽのブログを検索 なぽのホームページを検索

TopPage > 大分県
府内城
【2015/1/3更新】
2008/8/19記
(2007/8/24訪問)

人質西隅櫓と天守台
 
◆概要◆
 大分市の中心に位置する梯郭式平城である。大分城ともいう。北東隅に本丸を配し、東丸、西丸、山里曲輪が配されている。侍町である三の丸が北西から南東に大きく広がり本丸等を囲んでいる。それぞれの曲輪は堀で仕切られ、渡櫓・廊下橋で連結されていた。大友氏時代は「荷落」という地名であったが、縁起を担ぎ「荷揚」に改めた。福原直高の改易後、竹中重利が完成させ4重の天守を造営したが江戸中期に焼失し、現在は天守台のみが残る。江戸時代には府内藩の藩庁が置かれていた。明治初期に本丸・東丸・西丸の建造物以外は破却され、堀の一部が埋め立てられた。さらに太平洋戦争時の空襲により櫓が数棟焼失した。現在、城跡は大分城址公園となっている。本丸跡北西隅に人質櫓(二重櫓)と西丸に宗門櫓(平櫓)が現存し、大分県の史跡に指定されている。また、3棟の二重櫓と大手門、土塀、廊下橋が復元されている。西丸跡には1966年に大分文化会館が建てられ、三の丸跡には大分県庁、大分市役所などがある。

◆歴史◆
1597(慶長2)年 豊臣秀吉家臣の福原直高が12万石を得て臼杵より転封。
府内の中心は現在の大分駅東方に大友氏が築いた居館であった。
しかし、守備に不安があるため堅固な城郭の築城を開始する。
1599(慶長4)年 4月、荷揚城完成。旧府内城を廃した。
5月、秀吉の死後、三成派の直高は6万石に減封され再び臼杵に転封。
府内代官であった早川長敏が入城。
1601(慶長6)年 関ヶ原の戦いで西軍に付いた長敏が改易となる。
竹中重利が3万5千石で入城し、荷揚城の大改修を開始。
1602(慶長7)年 4層天守、櫓、山里曲輪、内堀が完成。
1607(慶長12)年 笠和口、堀川口、塩九升口の各門が完成し、大改修が概ね終了。
1634(寛永11)年 重利の子・重義は長崎奉行時代の不正の為切腹。2代で改易となる。
日根野吉明が2万石で入城。
1656(明暦2)年 吉明が嗣子無く没し廃絶。
稲葉信通が城代となる。
1658(万治元)年 大分郡2万石を領する松平忠昭が高松陣屋より入城。
以後、明治維新まで大給松平氏が居城とする。
1743(寛保3)年 大火により天守を含む大部分の建造物が焼失。以後、天守は再建されず。
1872(明治5)年 城内に大分県庁が置かれる。
1945(昭和20)年 空襲により櫓数棟が焼失。
1963(昭和38)年 大分県の史跡に指定される。
1965(昭和40)年 東丸着到櫓・二重櫓、西丸二重櫓、大手門を復元。
1996(平成8)年 西丸と山里曲輪を結ぶ廊下橋を復元。


西の丸大手門

西の丸大手門そばの隅櫓

復元 廊下橋
廊下橋

廊下橋は西の丸と山里丸を結んでいた橋である。山里丸は大坂城や姫路城などごく一部の城にしかない。茶の湯や能、月見など諸芸能が営まれた特別な場所であり、府内城の風格を示している。廊下橋も山里丸と同じく稀な建築物である。

●100名城スタンプ設置場所●
大手門と廊下橋(いつでも押せる)

●地図● 大分市荷揚町

より大きな地図で 大分県の城跡/なぽのホームページ用 を表示
TopPage > 大分県