ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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大和郡山城
2008/12/29記
(2008/12/27訪問)

追手向櫓と追手門
●概要●
 戦国期以前から小規模な城があったが、筒井順慶が大和国の主となった1580年に新たな城郭の建築を開始。それまで居城としていた筒井城から移り、1583年4月に完成した。1585年には豊臣秀長が大和・和泉・紀伊三ヵ国100万石余の領主として郡山城に入った。秀長は100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大し、新たに七重の天守閣の建造も開始された。大和は石材に乏しい国であったために、天守台の石垣には墓石や石地蔵までもが用いられている。関ヶ原の戦いの後、徳川家康の命令で郡山城の建築物は伏見城に移築された。城は奈良奉行所の管轄下に入り、大久保長安が在番した。大坂夏の陣後は大いに軍功のあった水野勝成が三河刈谷から移り、城郭の修築を行った。以後、松平家や本多家を経て1724年に柳沢吉里が甲府城から移り、以後明治まで柳沢氏が続いた。明治維新後に廃城令が出され、1873年に破却された。このとき櫓・門・塀などの建築物は全て解体されたものの、石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めている。付近の永慶寺には城門が山門として移築され現存している。
 現在城跡には遺構の他に、柳沢家初代郡山藩主吉里の父・吉保を祀る柳沢神社、柳沢家時代の史料を保管する柳沢文庫(毘沙門曲輪)、市民会館(常盤曲輪)、郡山高校(二の丸屋形跡)等がある。1980年には築城400年を記念して追手門(梅林門)、追手向櫓、東隅櫓、多聞櫓が復元された。

●歴史●
1580(天正8)年 筒井順慶が織田信長より大和一国20万石を与えられ、筒井城から郡山城に移り、砦規模の城を本格的な戦国城郭へと修築を開始した。
1585(天正13)年 豊臣秀長が、大和・紀伊・和泉100万石の太守として入城。2代・定次は、伊賀上野城へ移封となった。
1595(文禄4)年 豊臣秀長の養子・秀保が嗣ぐがに17歳で死去し、大和大納言家は断絶。
増田長盛が郡山20万石で入封。
1600(慶長5)年 長盛は関ヶ原の戦いで西軍についたため高野山へ追放された。
建物は伏見城へ移築され、城は奈良奉行所の管轄下に入り大久保長安が在番した。
1615(元和元)年 三河刈谷城主・水野勝成が6万石で入封し、城郭の修築を行った。
1619(元和5)年 勝成が備後国福山に移封。
松平忠明が大坂城から12万石で入封。
1639(寛永16)年 本多政勝が播磨国姫路藩より入封。
1679(延宝7)年 本多忠国が養父・政長の死により家督相続。同時に福島へ移封。
松平信之が播磨国明石藩より入封。
1685(貞享2)年 松平信之が老中となり、下総国古河に転封。
本多忠平が宇都宮藩より入封。
1724(享保9)年 本多忠烈が嗣子なく没したため断絶。
甲府城主・柳沢吉里が15万石で入封。
以後、柳沢氏が代々居城とし、明治維新を迎える。
1873(明治6)年 廃城令が出され、郡山城は破却された。
1980(昭和55)年 築城400年を記念し追手門(梅林門)、追手向櫓、東隅櫓、多聞櫓が復元された。


追手東隅櫓

本丸の石垣と天守台(左奥)
さかさ地蔵

天守台の裏手には、付近から徴用され築城に使われた数多くの石地蔵が、石垣に組み込まれたまま城下の人々により祀られている。石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵を確認することができ、これは逆さ地蔵と呼ばれている。 これらの地蔵のために、北側の石垣沿いにはさらに多くの石地蔵が奉納されている。また、石地蔵以外にも平城京羅城門跡から運ばれた礎石と伝わるものなどもある。

●地図● 奈良県大和郡山市城内町

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