ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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多聞城
(別名・多聞山城)
2011/8/15記
(2011/8/3訪問)

若草中学校にある大堀切
●概要●
多聞城は奈良盆地の北東に位置し、東に奈良坂、南東に東大寺、南に興福寺を見下ろす要地に築かれた。畿内など8カ国を領していた三好長慶は、大和も支配下に収めようと右筆の松永久秀に大和攻略を命じた。久秀は筒井順慶ら大和の国人衆を追放して支配下に収め、奈良盆地北西にある信貴山城を改修して睨みを利かせていた。だが、信貴山城は山城であり、平時の政庁としては地理的に不便であったため、奈良盆地内にあり比較的標高の低い丘にある眉間寺を城地として定め築城を開始したと考えられる。三好長慶が没すると松永久秀は三好三人衆と組んで第13代将軍・足利義輝を暗殺した。その後、筒井順慶と組んだ三好三人衆と反目し、一時は信貴山城を攻め落とされるなど苦境に陥った。その時、ちょうど畿内に進出してきた織田信長の援軍を得て信貴山城を取り戻すが、次第に劣勢となり織田信長の配下となった。多聞城には白塗りの4階櫓や長屋状の櫓、立派な御殿など先進的な建築物が立ち並び、その後の織田信長の築城術に少なからず影響を与えたとされる。その後、筒井順慶も織田信長の軍門に降り、2人は同格として扱われた。しかし、次第に筒井順慶が優勢となり、順慶が大和守護に任じられて多聞城を破却し、筒井城や郡山城の建築材として利用した。その翌年、松永久秀は再び織田信長に背き、信貴山城で挙兵。だが、大軍に攻め寄せられて行き詰まり、最後は名器・平蜘蛛の茶釜を懐に抱いて爆死した。現在、多聞城の跡地には若草中学校があり、遺構はかなり破壊されている。だが、見ごたえある大堀切は残り、周囲にはわずかながら土塁が残る。また、多聞城の城門と伝わる移築門が石田邸に現存する。

●歴史●
1559(永禄2)年 三好長慶は松永久秀に命じ、筒井順慶を含む大和の国人衆を追放。久秀は信貴山城を改修した。
1560(永禄3)年 松永久秀は大和支配の政庁として築城を開始し、2年後に入城した。
1573(天正元)年 松永久秀は15代将軍・足利義昭と組んで織田信長に乱を起こすが、ほどなく降伏した。
1576(天正4)年 織田信長は筒井順慶を大和守護とし、多聞城の破却を命じた。
1577(天正5)年 松永久秀は再び織田信長に反旗を翻したが、圧倒され信貴山城で爆死した。
1948(昭和23)年 多聞城跡に若草中学校が建設された。


若草中学校入口にある城址碑

石田邸にある移築門(地図

●地図● 奈良市法蓮町
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