ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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秋山城
(別名・松山城、神楽岡城)
2012/5/3
(2011/8/3訪問)

春日門跡
●概要●
秋山城は築城年は不明だが、宇陀三将の一人・秋山氏により南北朝時代に築かれたと考えられる。秋山氏はもとは伊勢神宮領宇陀神戸の神主家で、神戸社が春日社の末社になると春日神人の国民として興福寺被官となった。だが、南北朝時代になると北朝方であった興福寺に対して秋山氏は南朝方であったため、伊勢国司・北畠氏を後ろ盾として興福寺領を横領して勢力を伸ばした。その後、秋山氏は沢氏と激しく対立したが、沢氏は北畠氏の被官となって東に勢力を拡大し、秋山氏は筒井氏と組んで十市氏を攻め、西へ勢力を拡大した。伊勢の北畠氏滅亡後、宇陀三将は伊勢に入部した蒲生氏郷の配下となったが、氏郷の会津移封には従わず宇陀の地に残り筒井氏に従ったものとみられる。だが、豊臣秀長が大和国に入ると宇陀は豊臣秀吉の蔵入地となり、秋山氏らは追放された。その後城主がめまぐるしく交代したが、その間に豊織系の城郭に改修されたとみられる。だが、関ヶ原の戦い後に城主となった福島高晴が大坂夏の陣で豊臣方に内通したとして改易され、その際に松山城は廃城となった。その後織田信雄が松山藩主となり、秋山城の麓に陣屋を構えた。現在、秋山城跡には石垣や曲輪、空堀などが残り、春日門跡の石垣や黒門などが現存している。

●歴史●
南北朝時代 宇陀三将の1人である秋山氏が築いたと考えられる。
1585(天正13)年 豊臣秀長が大和守護となり、秋山氏が追放される。伊藤義之が城主となる。
1585(天正13)年 9月 加藤光泰が蔵入地で不正を働いたため、豊臣秀長に預けられて松山城主となる。
1587(天正15)年 加藤光泰が赦免され、佐和山城番となる。羽田正親が城主となる。
1594(文禄3)年 豊臣秀保が没したため主家が断絶し、羽田正親は豊臣秀次の配下となる。
多賀秀種が松山城主となる。
1600(慶長5)年 関ヶ原の戦いで多賀秀種が西軍についたため改易される。
福島正則の弟・福島高晴が城主となり、大規模な改修を加えた。
1615(元和元)年 大坂夏の陣で福島高晴が豊臣方に内通したとして改易される。
秋山城は破却され廃城となった。
織田信雄が松山藩主となり、秋山城の麓に陣屋を構えた。
信雄の6男・織田高長が2万8千石で継ぎ、宇陀松山藩となる。
1696(元禄8)年 4代・織田信保が丹波柏原に移封され、宇陀松山は天領となる。


大手門(西口関門・黒門)

空堀

石垣

石垣

●地図● 奈良県宇陀市大宇陀区春日
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