ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

なぽのブログを検索 なぽのホームページを検索

TopPage > 長野県
上田城
2015/11/28更新
2009/9/7記
(2007/7/7・2008/8/17訪問)

左から南櫓・東虎口櫓門・北櫓

●概要●
武田氏の滅亡後、真田昌幸により築かれた。南側は千曲川に接し、北側と西側に矢出沢川を引き込み総構えとていた。唯一の攻め口である東側にも蛭沢川や湿地帯などがある。徳川軍の攻撃を二度にわたって撃退したことで有名。江戸時代には上田藩の藩庁が置かれた。真田氏が信濃国松代へ転封した後、入城した仙石氏により現在見られる姿に再建した。明治時代になり建築物は破却され、本丸跡には松平神社(現在は真田神社)が建立された。昭和になり櫓2棟が元の位置に復元され、平成には櫓門や塀などが復元されている。現在は旧二の丸が上田城跡公園となっており、花見の名所となっている。

●歴史●
1583(天正11)年 真田昌幸により築城。
1585(天正13)年 徳川軍約7000人を迎え撃ち、撃退した(第1次上田合戦)。
1600(慶長5)年 真田昌幸は徳川家康率いる上杉討伐軍から離脱。約2000人で上田城に篭城。
徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢を迎え撃ち、守り抜いた(第2次上田合戦)。
1601(慶長6)年 真田昌幸が紀伊国九度山に配流され、上田城は徳川の手で破壊された。
東軍についた嫡男信之が上田領を引き継ぎ、三の丸跡地に陣屋を構えた。
1622(元和8)年 真田家は松代に移封された。
1626(寛永3)年 仙石忠政により再建が始められたが、2年後、忠政の死により中断。
1874(明治7)年 廃藩置県により廃城。本丸に7棟あった櫓は、一つを残して解体、売却された。
昭和16(1941)年 北櫓と南櫓が市民運動により買い戻され、元の位置に復元された。
平成6(1994)年 東虎口櫓門と袖塀が古写真を基に復元された。

真田昌幸
(さなだ まさゆき)

1547年、真田幸隆の三男として生まれる。7歳で人質として武田晴信のもとに送られ、奥近習衆に加わった。信玄は早くから才能を見抜き、寵愛したと伝えられる。一時は武藤家の養子となったが、長篠の戦で兄2人が討死したため真田姓に復し家督を相続した。武田家滅亡後は織田・北条・徳川・上杉・豊臣と主家をめまぐるしく変え、「表裏比興の者」と評された。関ヶ原の戦では上田城に篭城して徳川軍3万8000人を撃退した。戦後は九度山に配流され、1611年に病没。享年65。家康が昌幸を怖れていたとされるエピソードとして、大坂冬の陣で真田が大坂城に入城したと知ると「親の方か?子の方か?」と訊ねたという。

第1次上田合戦
・1582年3月、織田信長により武田氏は滅亡。
・同年6月に本能寺の変で織田信長が横死すると、北条氏が織田領上野に侵攻。滝川一益を神流川の戦いで撃破した。これにより信濃、甲斐、上野が空白状態となると、旧織田領を巡る天正壬午の乱が起こる。
・甲斐を制圧した徳川家康は南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、北条氏は東信濃へと侵攻。このとき東信濃から西上野に勢力を保っていた真田昌幸は北条方に属するが、徳川が東信濃に侵攻してくると徳川方に寝返った。
・10月には徳川・北条の間で和睦が成立するが、真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換することとなった。
・1585年に家康が沼田領を北条氏へ引き渡すよう求めるが拒否。敵対関係にあった上杉氏と通じた。
・同年7月、家康は昌幸の造反を知ると真田討伐の兵を起こし、約7000の兵を上田城に派遣した。これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。
・上田城に攻め寄せた徳川軍は、二の丸まで進むが反撃を受け撃退される。更に後退の際に追撃を受け、戸石城の信幸が横から攻めると壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わって神川で多数の将兵が溺死した。この戦いにより徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。
・翌日、徳川方は近隣の丸子城を攻めるが攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。その後も、大久保忠世らは小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返す。
・11月に徳川家では譜代の重臣・石川数正が出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。
・この合戦によって真田氏に対する評価は高まり、本多忠勝の娘・小松姫を真田信之へ嫁がせて懐柔するきっかけともなった。

第2次上田合戦
・1590年からの小田原征伐により北条氏は滅ぼされ、家康は関東に移封させられた。
・1598年、豊臣秀吉が死去。五大老筆頭の地位にあった家康の影響力が強まる。
・1600年6月、家康が上杉征伐の兵を起こし、昌幸は東軍に従っていた。
・1600年7月下旬、三成は毛利輝元を総大将として西軍を組織し挙兵(関ヶ原の戦い)。昌幸は下野で次男・信繁(幸村)とともに離反して上田に帰還し西軍に与した。長男の信幸は東軍に従った。
・徳川家康は、下野国小山で三成らの挙兵を知り、軍を西に返した。この時、家康本隊や先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢は中山道を進んで西に向かった。その進路に上田城があった。
・秀忠は昌幸の嫡男・信幸に命じて開城を求める。老練な昌幸はのらりくらりと返事を先延ばしにして、時間稼ぎに徹した。秀忠は数日を空しく費やした後で昌幸の真意を知り激怒、上田城攻略を決意した。
・このとき本多正信や榊原康政などは上田城を黙殺して関ヶ原に急ぐべきだと進言するが、秀忠の決断を覆すことは出来なかった。
・牧野康成率いる手勢が昌幸の挑発に乗ったのをきっかけに戦端が開かれると、昌幸はわずか3500の兵力で徳川軍をかき回して混乱に陥れた。
・兵力では圧倒する徳川軍であったが、地の利を生かした真田軍に翻弄され敗北を喫した。
・秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、押さえの兵を残して先を急いだ。しかし、上田での遅延と道中の悪天候が重なり、関ヶ原本戦に遅参するという大失態を犯した。この失態に家康は激怒し、しばらくは対面することすら許さなかった。
・肝心の関ヶ原では西軍が敗北。昌幸と信繁は死罪を命じられたが、信幸とその岳父である本多忠勝の助命嘆願などにより、一命を助けられて九度山に流罪となった。


真田神社

真田石
西櫓

上田城では建築当初のままに残されている唯一の建物。外壁は雪の多い地方で用いられる腰下見板が張られ、壁の上部から軒廻りにかけては防火のために白漆喰で柱などを塗りこめた大壁造りとなっている。壁に設けられている穴は弓矢や鉄砲を撃つためのもので、長方形の弓狭間と方形の鉄砲狭間がある。

●100名城スタンプ設置場所●
上田市立博物館チケット売場
開館時間 8:30〜17:00(入館は16:30まで)
休館日 毎週水曜日、祝日の翌日
年末年始
8月〜10月は無休
入館料 大人250円、高校生以上の学生180円、小中学生60円、未就学児無料

●地図● 長野県上田市二の丸

大きな地図で 長野県の城跡/なぽのホームページ用 を表示
TopPage > 長野県