ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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小諸城
2015/11/28更新
2009/12/5記
(2008/8/17訪問)

三の門(現存)

●概要●
武田信玄の東信州経営のために築かれた城郭。それ以前にも城として使われていたが、現在残っている城跡は山本勘助の縄張りだと言い伝えられている。武田氏滅亡後は仙石秀政が城主となり、近代城郭へと大掛かりな改修を行った。江戸時代には小諸藩の藩庁が置かれた。資料により天守閣、本丸などの建造物が美しい城だったと伝えられている。当時の建造物は石垣と三之門、大手門(写真)のみが現存。これらの二つの門は共に国の重要文化財に指定されている。城郭は城下町よりも低地に縄張りされ、市街地から城内を見渡すことができた。このため「穴城」という別名がある。

●歴史●
1487(長享元)年 大井光忠によって築城されたと考えられている。
1554(天文23)年 武田信豊が入城。
1590(天正18)年 仙石秀久が入城。
1622(元和8)年 2代・仙石忠政が上田城へ転封。その後、松平氏、青山氏、酒井氏など入封。
1626(寛永3)年 落雷によって天守が焼失。
1702(元禄15)年 牧野康重が入城。以後、明治まで牧野氏の居城となる。
2008(平成20)年 民家として利用されていた大手門が再び門として修復された。

仙石秀久
(せんごく ひでひさ)

1552年1月26日、美濃の豪族・仙石久盛の四男として生まれた。斎藤氏に仕え、斎藤氏滅亡後は羽柴秀吉に仕えた。姉川の戦いで浅井氏の武将・山崎新平を討ち取り、近江野洲郡に1000石を与えられた。秀吉の中国征伐でも戦功を挙げ、黒田孝高らとともに淡路島に渡り、岩屋・由良城を陥落させた。本能寺の変後の山崎の戦いでは淡路島で明智方豪族を討伐。柴田勝家に呼応した長宗我部元親を抑え、淡路を守り抜いた。戦後、淡路国洲本城主5万石の大名となり、淡路水軍を統括した。更に紀州討伐や四国征伐でも抜群の戦功を挙げ、讃岐高松10万石を与えられた。だが、九州征伐では軍監を務めたが、無謀な作戦により戸次川の戦いで大敗。有力武将の多くを戦死させた上、諸将の軍を差し置いて逃げ帰るという大失態を演じた。激怒した秀吉は、秀久の所領を没収して高野山へ追放した。その後、徳川家康の斡旋により小田原征伐に参陣。糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織を着て、紺地に無の字を白く出した馬印を立て、自ら十文字の槍を振るって力戦。山中城攻めでは先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口の一つを占拠するなど抜群の武功を挙げた。箱根にある「仙石原」は、彼の奮闘の地であったことに由来する。この功績により信濃小諸5万石を得て、大名として復帰した。秀吉が死去すると、秀久は早くから徳川家康に接近した。関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従軍して上田城攻めに参加。秀忠の遅参について激怒している家康への謝罪に努めたため、秀忠の将軍就任後は特に重用された。過酷な課役を与えた事から佐久郡では一郡逃散という失態を犯す事となるが、小諸城及び城下町を現在のようにしたのは秀久の功績でもあり、街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績を残している。1614年、江戸から小諸へ帰る途中に発病し、武州鴻巣にて5月6日に死去。享年63。



大手門

天守台

案内図

●100名城スタンプ設置場所●
懐古園事務所
入園料 大人300円、中学生以下100円
開園時間 8:30〜17:00
休園日 3月中旬〜11月末まで無休
12月〜3月中旬まで毎週水曜日
年末年始(12月29日〜1月3日)
大手門
入場料 無料
開場時間 10:00〜15:00
開場日 4月第2土曜日〜11月第2日曜日までの土日祝日のみ
8月は平日も開場

●地図● 長野県小諸市丁
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