ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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海津城(別名・松代城)

2016/2/28更新
2009/1/22記
(2007/7/7訪問)

太鼓門、橋詰門と太鼓門前橋

●概要・歴史●
松代城は、1560(永禄3)年頃に武田信玄が山本勘助の縄張りにより、清野氏の館を改築して築城したとされる。北西側を流れる千曲川を自然の要害とした平城で、丸馬出や三日月堀など、甲州流築城術の典型的な特徴をもつ。上杉謙信に対する前進基地として築かれ、初めは原美濃守が、次いで高坂昌信がこの地を守った。武田氏滅亡後、甲斐・信濃は織田氏、上杉氏、北条氏、徳川氏の間で激しい争奪戦の的となったが、最終的には徳川氏の領土となった。関ヶ原の戦いの後はめまぐるしく城主が交代したが、1622(元和8)年に真田信之が城主となってからは、明治時代に廃城となるまでの約250年の間、松代藩真田家10万石の居城となった。1872(明治5)年の廃城により建築物は無くなったが、2004(平成16)年に太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元された。

太鼓門

太鼓門は本丸内では一番大きな門であった。本丸大手の出入口は桝形に石垣を組み、二層の太鼓門と橋詰門の2つの門で構成。このような形を桝形といい、本丸を厳重に守っていた。良好に残っていた門礎石をそのまま利用し、絵図面などから板葺で切妻屋根の姿が忠実に復元された。
北不明門

本丸の搦手に位置する門。太鼓門と同様、櫓門と表門(枡形門)の2棟による構成であった。18世紀中頃に行われた千曲川の改修以前は、門が河川敷に接していたころから、『水之手御門』と呼ばれていた。絵図史料をもとに、当時の門礎石をそのまま利用して忠実に復元された。櫓門は石垣に渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門である。
本丸御殿跡

本丸内には江戸時代中頃まで政庁や藩主の住居のための御殿があった。調査では、建物礎石や井戸跡、焼けた土壁など、1717(享保2)年の火災で焼失した御殿の痕跡が多数見つかっている。しかし、度重なる水害の影響により、1770(明和7)年に南西に位置した花の丸に御殿が移された。
石垣

松代城では本丸の周囲や出入口など、重要な部分に石垣を用いていた。特に本丸北西の戌亥隅櫓の石垣は松代城内でも古い近世初頭のものと言われており、その高さと勾配の美しさは、当時の石工の技術の高さを物語っている。石垣の修理工事では可能な限りその特徴を活かし、明治以降の改変や焼失したもの、構造的に不安定になっている箇所について、当時と同じ工法で積み直した。
(写真は北西隅櫓跡)

北から見た復元図
●100名城スタンプ設置場所
真田邸
開場時間 9:00〜17:00(入場は16:30まで)
12月29日〜1月3日は9:00〜16:00(入場は15:30まで)
休場日 年中無休
入場料 大人200円、小中学生80円

●地図● 長野県長野市松代町

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