ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

なぽのブログを検索 なぽのホームページを検索

TopPage > 宮崎県
都於郡城
2007/8/24訪城

本丸と伊東マンショ像
 
●概要●
工藤左衛門尉祐経は建久元年(1190)年正月、鎌倉幕府から日向国の地頭職に補せられました。その嫡男である伊東祐時から6代目の祐持は足利尊氏に従って勲功を認められ、建武2年(1335年)、都於郡300町を賜り、その一族を連れて伊豆から都於郡に下向してきました。都於郡伊東氏としては、祐持が初代の城主という事になります。その後2代目伊東祐重が山城としての都於郡城の築城工事を行いました。築城の模様については『日向記』(天正18年・1590年)に詳細に記録されています。築城に際しては本丸に存在していた伝説・高屋山上陵を掘り、出土品は城の近くにあった一乗院に移したと伝えられています。都於郡城の主体部としては本丸、二ノ丸、三ノ丸、西ノ城、それに奥ノ城の2つの曲輪があります。この内城としての5城郭は、一名『浮舟城』とも称されていました。この5城郭に対しては外城としての南ノ城、中尾城、東ノ城、日隠城などが内城をとりまくように築城されています。また、各曲輪の縁辺部には土塁が構築され、曲輪と曲輪の間には空堀もつくられて、外的防御体制をとるようになっています。南北朝以来約240年間、この都於郡城を本城としてとして日向一円を掌握した伊東氏も、10代目伊東三位入道義祐の時代、天正5年(1577年)12月、都於郡城落城とともに一族を連れて豊後に落ち延びて行く事になり、伊東氏の栄華は終わりを告げることになります。
(現地案内板より)

●歴史●
1337(建武4)年 伊東祐持により築かれる。
1577(天正5)年 島津氏により落城。伊東氏は大友氏を頼り豊後へ落ち延びた。
1615(元和元)年 一国一城令により廃城となる。


本丸跡にある説明板の復元図

●地図● 宮崎県西都市都於郡町

より大きな地図で 宮崎県の城跡/なぽのホームページ用 を表示
TopPage > 宮崎県