ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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高城
2007/8/24訪城
【2015/1/3更新】

メロディー時計台
 
●概要●
高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟まれ、標高60mを数えます。地形は舌状に細長く伸び台地であり、見晴らしには大変優れた所に営まれた山城であります。この城では天正6年(1578年)、天正15年(1587年)の二度に渡り、大合戦がありました。その当時日向で勢力を誇っていた伊東氏が島津氏に負けて大分に逃げ、親類の大友氏を頼ります。大友氏はこの際、新興勢力の島津氏をつぶそうと、約5万の大軍でこの城を攻撃しました。しかし、高城城主・山田新介有信はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友軍は大敗しました。これを高城川合戦と呼んでます。この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟・秀長率いる15万の大軍と合戦することになりますが、この時も新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。これらの戦いは戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。また、この高城はその二度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将・山田新介有信の名と共に語り継がれています。城戸しての特徴は、現在城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭と考えられています。ここでは島津氏の家臣であった城主・山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられています。また、この城に敵が侵入するのを防ぐために、7箇所の竪堀がみられるのが特徴です。当時の山城にはこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰り広げております。平成4年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディー時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列などの遺構、土師器といわれる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器などの遺物が確認されました。これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当し、当時の戦いの状況がより理解することができます。
(現地案内板より)

●歴史●
1335(建武2)年 島津忠宗の4男・時久が、足利尊氏からの恩賞として新納院の地頭職に任命された。この時に城郭を築いたとされる。時久はこの時より新納氏を名乗った。
1350(観応元)年 新納時久が京に上がっている隙を突き、畠山直顕が高城を攻撃・落城。
1357(延文2)年 土持氏が新納院の地頭職に就く。
1457(長禄元)年 土持景綱が伊東祐堯に敗れる。伊東氏家臣・野村蔵人が城主となった。
1578(天正6)年 2月、島津義久より山田有信が城主および地頭職に任命された。
10〜11月、第一次高城合戦。山田有信は高城を守り抜き、島津氏が大勝した。
1587(天正15)年 第二次高城合戦。九州征伐15万の軍勢と対峙。島津本隊が敗れたため山田有信は城を明け渡して退去した。戦後は秋月氏の領地となる。
1615(元和元)年 一国一城令により廃城となる。

●地図● 宮崎県児湯郡木城町高城

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