ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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都之城
2007/8/24訪城
【2015/1/3更新】

都城歴史資料館
 
●概要●
1375(永和元)年、島津氏の支族である北郷氏(都城島津氏)第2代・義久が築城し、以後北郷氏の本城となる。都島に築城されたので都之城と名付けられ、後に一帯の地名と由来となった。 伊集院氏が支配していた1599(慶長4)年には庄内の乱の舞台となった。 乱の後再び北郷氏の支配となるが、1615(元和元)年、一国一城令により廃城となった。現在は城山公園として整備され、本丸跡には城郭風建築の都城歴史資料館が建てられている。

●歴史●
1375(永和元)年 北郷義久が築城
1599(慶長4)年 庄内の乱
1615(元和元)年 一国一城令により廃城

●庄内の乱 :伊集院氏側勢力、:島津氏側勢力
 1599(慶長4)年に日向国庄内(現在の宮崎県都城市とその周辺)で起きた島津氏家中最大の内乱。最終的には徳川家康の仲介により解決した。関ヶ原の戦い直前の大乱であり、島津氏が大軍を送れなかった原因になったともいわれている。

 伊集院忠棟島津氏が九州を制覇する際に活躍した功臣であった。豊臣秀吉の九州征伐では兵力差を悟り早期降伏を主張。戦後処理でも島津氏の存続に尽力した。1594(文禄3)年、忠棟は秀吉から都城8万石を与えられた。それまで都城の領主であった北郷氏(島津氏の一族)は祁答院へ移され、石高も半減されていた。また、忠棟は秀吉から直接命令を受け、検地後の知行配分の責任者であった。このため家中の不満は忠棟に集中していた。

 秀吉の死後、朝鮮から帰国した島津忠恒に石田三成もしくは徳川家康が”忠棟に叛意がある”と伝えた。島津宗家相続の際、忠棟は島津彰久を推していた。また、忠恒は朝鮮の役で国元から満足に補給が行われなかったのは忠棟に原因があると考えていた。忠恒忠棟を呼び出して斬殺してしまった。

 伊集院忠棟の嫡子・忠真は父が斬殺されたことを知り合議した。その結果、島津氏宗家に反旗を翻すことになった。都城は都之城を本城とし、12の外城に守られていて容易に攻め落とすことはできない。忠真は各外城の防御を厚くし、一族や家臣を配置して守りを固めた。忠真の兵力は8千人程であった。

 一方、忠恒は徳川家康の許可を得て帰国し、庄内を攻めた。忠恒の兵力は3、4万人程度であった。家康は使者をたてて和睦を促したが成立しなかった。そのため、九州の諸大名に島津氏を支援するよう要請した。忠恒は、緒戦で山田城、恒吉城を落としたが、その後はなかなか戦果を挙げられなかった。一方、忠真側は智将・白石永仙らが活躍。島津義久も出陣し財部城を攻めたが、落とすことができなかった。

 家康は再度使者を送り調停を行った。使者は義久忠恒から「忠真が降伏すれば今までどおり召抱える」という証文をとり、これを提示して降伏を促した。1600(慶長5)年2月6日、志和地城が降伏し、他の外城も順次降伏。忠真は家康の調停を受け入れ、3月15日に降伏した。降伏後、忠真は頴娃1万石へ移され、後に帖佐2万石へ移された。都城には旧領主であった北郷氏が復帰した。

 乱終結後も忠恒忠真を警戒し続けた。忠真は肥後の加藤氏に仇討ちの助勢を依頼する密書を送ったが、その密書を託された伊集院甚吉忠恒に密書を渡した。1602(慶長7)年、忠恒は上洛に忠真の同行を命じ、日向国野尻で射殺。同日、忠真の母と弟三人も殺され、伊集院氏は滅亡した。

●縄張図●

●案内●
都城歴史資料館
開館時間 9:30〜17:00(入館は16:30まで)
入館料 大人210円、高校生160円、小中学生100円(土曜日は小中学生無料)
休館日 毎週月曜日(祝日の場合は翌日が休館)、年末年始

●地図● 所在地:宮崎県都城市都島町

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