ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

なぽのブログを検索 なぽのホームページを検索

TopPage > 宮城県
白石城
2016/3/6更新
2009/7/25記
(2007/9/22訪問)

復元三階櫓

●概要●
仙台藩伊達氏の支城として片倉氏が代々居城とした。江戸幕府の一国一城制の対象外とされて明治維新まで存続した。三階櫓は支城という格と幕府への配慮から天守の名をはばかり大櫓と名づけられたとされる。明治初頭の廃城令により廃城処分とされ、ほとんどの建物は破却された。現在、三階櫓など本丸の一部が木造で復元されている。

●歴史●
1088(寛治2)年 後三年の役(源義家が奥州清原氏を討伐)で戦功を成した藤原経清の次男経元が苅田と伊具の2郡を与えられ、姓も刈田と改めて居館を築いた。同氏は後に伊達氏家臣となる。
1589(天正17)年 伊達政宗が摺上原の戦で蘆名氏を滅ぼす。
1590(天正18)年 豊臣秀吉は政宗が関東奥州総無事令に反したとして蘆名旧領を没収。会津を蒲生氏郷に与えた。
1591(天正19)年 蒲生氏郷の家臣・蒲生郷成によって本格的に築城。本丸に三層櫓、坤櫓・巽櫓を築き曲輪を整えた。
1598(慶長3)年 蒲生氏郷の子・秀行が宇都宮へ移封。上杉景勝が会津に封された。家臣・甘糟景継が城主となる。
1600(慶長5)年 関ヶ原の戦で伊達政宗が上杉景勝から白石城を奪取。政宗の叔父・石川昭光が城代となった。
1602(慶長7)年 伊達政宗の側近・片倉景綱(小十郎)が城主となる。以後260年10代にわたり片倉氏が居城とした。一国一城令以後も仙台伊達藩は特別に仙台城と白石城の2城が許された。
1819(文政2)年 火災で焼失。
1823(文政6)年 再建される。
1868(明治元)年 4月 会津若松藩救済を願い出たが官軍は却下。
   仙台藩士が官軍の参謀・世良修蔵を暗殺。
5月 戊辰戦争。東北諸藩が白石列藩会議を開き「奥羽越列藩同盟」を結成。
9月 会津若松城も開城し、奥州は平定された。
1869(明治2)年 新政府軍が占領、新政府に降った盛岡藩(南部氏)が管理。
1875(明治7)年 白石城は売却・解体された。
1995(平成7)年 5月3日、文政6年再建後の三階櫓、大手門など本丸の一部を再建。
 
片倉景綱
(かたくら かげつな)

 米沢の成島八幡神社の神職・片倉景長の次男として1557(弘治3)年に生まれた。異父姉は伊達政宗の乳母の喜多(政岡)。鬼庭綱元(喜多の異母弟)は義理の兄に当たる。
 はじめ伊達輝宗の徒小姓として仕えた。その後、遠藤基信の推挙で1575(天正3)年に政宗の近侍となった。政宗の主要な戦の大半に参加し、いずれも伊達氏の危難を救っている。関ヶ原の戦後は白石城1万3000石の城主となった。以後、片倉家は明治まで11代にわたって白石の地を治め続けた。
 仙台藩では奉行(家老)を中堅クラスの家臣から登用。家格でも役職でも片倉氏は数ある重臣の一人にすぎなかった。しかし、外から特別な待遇を受け、豊臣秀吉は大名に取り立てようとした。他の大名家からも政宗の第一の重臣とみなされており、江戸幕府も江戸城下で屋敷を割り当てるなど大名に準じる扱いをした。1615(元和元)年、59歳で病死した。
 
本丸の復元図
 

大手二の門

鐘堂

●案内●
開館時間 4月〜10月 9:00〜17:00
11月〜3月 9:00〜16:00
休館日 12月28日〜31日
入館料 大人300円、小中高校生150円

●地図● 宮城県白石市益岡町

大きな地図で 宮城県の城跡/なぽのホームページ用 を表示
TopPage > 宮城県