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そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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鵜殿城
●地図・アクセス● 三重県南牟婁郡紀宝町鵜殿 2013/1/5(訪問日 2011/7/31)
◆概要◆
鵜殿城の築城年代や築城者は不明ですが、室町時代初期にはすでに鵜殿氏が居城としていました。 鵜殿氏は熊野別当・湛増の子が鵜殿に移り鵜殿姓を称したことに始まったとされます。 湛増は平安時代末期から鎌倉時代初期の人物であるため、築城もその頃と考えられます。 庶流の一部は三河に移り、徳川家康に仕えています。 当地の鵜殿氏は新宮速玉大社の社家として、社寺から年貢の徴収・収納を請け負っていました。 また、熊野川流域の材木などの交易により巨利を得ていました。 室町時代初頭は南朝方でしたが、1382年に北の有馬氏らとともに北朝方に寝返ったため、対岸の新宮を本拠とする堀内氏など南朝勢力に攻められました。 その後、戦国時代になると鵜殿氏は堀内氏と姻戚となり行動をともにするようになりました。 両氏は熊野川河口にそれぞれ城を構えており、熊野水軍の中核を担っていたと考えられます。 鵜殿氏は堀内氏とともに関ヶ原の戦で西軍に味方したため領地を失って消息不明となりましたが、大坂の陣では堀内主水に従い豊臣方として参陣しました。 大坂夏の陣が終わって大坂城を退去する際、徳川家康の孫娘で豊臣秀頼の正室であった千姫一行に遭遇。 堀内主水と仲の良かった徳川方の坂崎直盛とともに千姫を徳川家康の元に送り、その功により鵜殿氏は旧領1500石を回復しました。 以後は紀州藩に属し、鵜殿氏の家系が途絶える元禄末(1700年頃)まで続きました。 城跡は矢淵中学校の東隣にある丘陵上にあり、熊野川河口から対岸の新宮を見渡すことができます。 遺構は土塁や堀切の跡が明瞭に残っています。 登城口はふるさと歴史館と矢淵中学校の間にあります。


説明板

空堀

土塁で囲まれた主郭

説明板
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