ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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長島城
2011/8/9記
(2011/7/30訪問)

移築大手門(蓮生寺山門)
●概要●
木曽川と長良川に挟まれた天然の要害に築かれた。織田信長と一向一揆の戦いの舞台となったことでも有名である。その地形ゆえに信長も苦戦を強いられ、数万の軍勢で兵糧攻めにしてようやく陥落させることができた程である。その後は滝川一益、織田信雄、豊臣秀次などの領地となり、江戸時代には長島藩の藩庁として明治維新まで存続した。その後、城地は長島中部小学校の敷地となり、校庭には江戸時代から残る大松がある。周囲は宅地化が進み、東側の堀と蓮生寺に移築された大手門が城としての面影をわずかに残すのみである。

●歴史●
1245(寛元3)年 藤原道家が館を築いた。
1482(文明14)年 北伊勢四十八家の一人、伊藤重晴によって城が再建された。
1561(永禄4)年 服部友定が城を改修。
1567(永録10)年 織田信長に稲葉山城を追われた斉藤龍興が、長良川を下り長島城に入城。
龍興が一向一揆に加わって抵抗を続けたため、信長は北伊勢を攻める。
1569(永禄12)年 織田信長が北伊勢を制圧。信長は2男・信雄を北畠氏の養子として家督を継がせる。
1570(元亀元)年 一向宗・願証寺の住職・証意が長島城から伊藤氏を追放し、一向一揆の拠点となった。織田信長が畿内で軍事行動をしている間に尾張に攻め込み、信長の弟で小木江城主の織田信興を自刃に追い込んだ。
1571(元亀2)年 織田信長による第1次長島攻めが行われるが敗退。
1573(天正元)年 織田信長は近江の浅井氏を滅ぼした勢いで第2次長島攻めを行う。長島周辺の城を攻め落とすが、退却中に一揆勢の攻撃を受けた。
1574(天正2)年 織田信長が第3次長島攻めを行う。数万の軍勢で陸・海ともに封鎖して兵糧攻めを行い、一揆勢を全滅させた。戦後、北伊勢5郡は滝川一益に与えられた。
1582(天正10)年 本能寺の変後、滝川一益が上野・神流川の戦いで北条氏直に敗れ、関東を追われて長島城に入った。
1583(天正11)年 滝川一益は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家側についたため、領地を全て没収された。
尾張・北伊勢・伊賀は織田信雄の領国となり、長島城を居城とした。
1585(天正13)年 11月の天正地震で甚大な被害を受け、織田信雄は居城を清洲城に移した。
1590(天正18)年 小田原征伐後、織田信雄は徳川家康旧領への移封を拒否したため改易となる。
代わって尾張・北伊勢5郡の領主となった豊臣秀次の城となる。
1595(文禄4)年 秀次事件により豊臣秀次が切腹。
1598(慶長3)年 福島正則の弟・高晴が1万石で入城。
1601(慶長6)年 関ヶ原の戦いの功により、菅沼定仍が2万石で入城。長島城を改修して藩庁とした。
1621(元和7)年 菅沼氏が移封されて長島藩は廃藩となり、長島城も廃城となった。
1649(慶安2)年 久松松平家の松平康尚が那須藩より1万石で入城し、長島藩が再興された。
1702(元禄15)年 4代将軍・徳川家綱の生母の弟・増山正利の子・正弥が、常陸下館より2万石で入城。以後8代続き明治を迎えた。
1872(明治5)年 廃藩置県の際に廃城となった。


長島中部小学校に残る大松

堀跡を流れる川

●地図● 三重県桑名市長島町西外面
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