ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

なぽのブログを検索 なぽのホームページを検索

TopPage > 三重県
安濃津城(津城)
2012/12/28記
(2007/6/23訪問)

模擬三重櫓
●概要●
安濃津城は戦国時代に長野氏の一族・細野藤敦により築かれた。長野氏は安濃を本拠とする北朝方の有力な国人で、南朝方であった北畠氏とは長年対立してきた。だが、1558年に北畠具藤を嗣子に迎えることで和解し、以後は北畠氏に臣従するようになった。安濃津城が築かれたのは丁度その頃であると考えられる。それからおよそ10年後、織田信長が伊勢への侵攻を開始した。最初に標的にされたのは長野氏であった。細野藤敦は滝川一益の軍勢を退けるなど奮戦したが、流言を信じた長野具藤が藤敦を攻めたため返り討ちにし、具藤は実家である北畠氏の館へ逃げ込んだ。長野氏も激しく抵抗したが、織田信長の弟・信包を嗣子として迎えることで和睦したため、細野氏もこれに従った。新たに長野氏の当主となった信包は安濃津城を居城とし、大改修を加えて総石垣造りの城とした。信包は織田信長が生存中は甥の信忠、信雄に次ぐ地位であったが、本能寺の変後は羽柴秀吉に従った。だが、小田原征伐の際に北条氏の助命嘆願をしたことで秀吉の不興を買ったと言われており、後に丹波・柏原へ移された。信包に代わって秀吉の家臣・富田一白が城主となった。子の信高の時に関ヶ原の戦いがあり、信高は東軍についた。そのため西軍の毛利秀元や長曽我部盛親ら3万の軍勢に包囲された。城を守る兵は1000人余りと少なく、篭城戦には向かない平城をよく守ったが、最終的には木食上人の仲介により開城した。この戦いで信高は絶体絶命の窮地に陥ったことがあったが、その時信高の妻が敵兵を次々討ち取って信高を救った話は有名である。戦後、この時の奮戦が認められて2万石の加増を受けた。信高が伊予・宇和島へ移されると藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石の領主として城主となった。高虎も城に大改修を加え、本丸と東丸・西丸の周囲に堀を巡らせ、二の丸を加えた輪郭式に改めた。高虎は伊賀上野城を戦闘向きの城、安濃津城を平時の居城として使い分けていた。その後、明治維新まで安濃津城は藤堂氏の城であったが、廃藩置県により廃城となり、建築物は破却され外堀は埋められて市街化の波に呑まれた。現在は本丸と内堀の一部が残っており、「お城公園」として整備されて模擬三重櫓も建てられた。

●歴史●
永禄年間
(1558〜69年の間)
長野氏の一族・細野藤敦により築かれた。
1568(永禄11)年 織田信長が伊勢を侵攻。織田掃部頭(津田一安)が入城。
1577(天正5)年 天守が完成した。
1594(文禄3)年 織田信包は北条氏の助命嘆願により秀吉の機嫌を損ね、丹波国柏原へ移された。
富田一白が城主となる。
1600(慶長5)年 富田信高は関ヶ原の戦いで東軍についたため、西軍の毛利秀元ら3万の軍勢に攻められ建造物の大半を焼失した。木食上人の調停により開城。
1608(慶長13)年 富田信高は伊予・宇和島へ移る。代わって藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石を領する。
1871(明治4)年 廃藩置県により廃城となり、建造物は破却された。
1958(昭和33)年 模擬三重櫓が建築された。


藤堂高虎像

縄張図

安濃津→津
安濃津は古くは博多津・坊津と並ぶ「三津」の1つに数えられ、貿易の拠点として栄えていた。だが1498年の明暦地震による津波で港は崩壊し、遠浅となったため港としての機能は失われた。安濃津は現在では単に津と呼ばれているが、昔から「安濃津」と呼ばれたり「津」と呼ばれていたりした。安濃津は「安濃にある津(港)」が地名の由来であったが、明暦地震以後は港ではなくなった。江戸時代までは両方の名前で呼ばれていたらしいが、近代の市制施行で「津市」となった。津は地名・駅名ともに「世界で一番短い名前」としてギネスブックにも登録されている。

織田信包(おだのぶかね)
織田信長の弟で1543年生まれ。26歳の時に兄・信長の命令により伊勢・長野氏を継いだ。だが、後に信長の命により織田に復姓している。信長に従って各地の戦で活躍し、小谷城の浅井長政を攻め滅ぼした時はお市とその娘3人を預かっている。信長からの信頼は厚く、信長の嫡男・信忠の補佐も任されていた。織田家中での序列も信忠、信雄に継ぐものであり、重鎮として遇されていた。本能寺の変後は羽柴秀吉に従い、安濃津15万石の領主として「津侍従」と呼ばれていた。だが、1590年の小田原征伐の際、北条氏の助命嘆願をしたことが秀吉の不興を買ったと言われ、検地で石高が増えたにも関わらず役割を疎かにしたという理由で4年後に改易された。その後、近江に2万石を与えられて秀吉の御伽衆に加えられ、1598年には丹後・柏原3万6千石を与えられた。関ヶ原の戦いでは西軍についたが、徳川家康により不問に付され、旧領をそのまま安堵された。その後は大坂城で豊臣秀頼の補佐をしていたが、大坂冬の陣前の1614年7月17日に吐血し世を去った。享年72。柏原藩は孫の代まで続いたが無嗣断絶。一時天領となったが、織田信雄の子孫が藩主となり明治まで続いた。

●地図● 三重県津市丸之内
TopPage > 三重県