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そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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赤木城
●地図・アクセス● 三重県熊野市紀和町赤木 2018/11/27更新(訪問日 2011/7/31、2018/11/24)
◆概要◆
室町時代の紀伊は寺社勢力が強く、朝廷も幕府も徴税権が及ばない程でした。 紀伊国守護の畠山氏でさえ、領国経営では寺社勢力の協力無しには成り立ちませんでした。 羽柴秀吉は根来寺や雑賀衆、高野山、粉河寺といった紀伊の諸勢力を制圧し、羽柴秀長が和泉・紀伊・大和を支配するようになりました。 支配地で徴税するためには検地が必要ですが、1586年に検地に反対して奥熊野の地侍を中心とする一揆が勃発しました。 羽柴秀長は自ら出陣し、奥熊野地方は羽柴秀長の代官・吉川平助が活躍して一揆を鎮圧しました。 当時の熊野は材木の産地として有名で、畿内の建築ラッシュと相まって材木が高値で取引されていました。 熊野を領地にしていた羽柴秀長はかなりの富を得ていましたが、吉川平助がこの材木の売上げを横領。 吉川平助は羽柴秀吉により処刑され、羽柴秀長もしばらくは兄に許してもらえませんでした。 この後、1589年に奥熊野の地に赴任してきたのが藤堂高虎です。 藤堂高虎は、領民統治のために新たに城を築きました。 当時、紀伊では大名同士で行うような大規模な戦が無かったので、規模もそれ程大きくありませんでした。 総石垣造りの城が完成した時、藤堂高虎は領民達に登城して祝儀をのべるよう命じました。 しかし、一揆の首謀者が登城すると一人ずつ奥へ通して捕え、田平子峠で打ち首にしました。 その数は数百人にのぼりました。 それ以来、藤堂高虎が赤木城に在任している間には、一揆は全く起きませんでした。 その後、1613年に浅野長晟が紀州藩主となり、身分確定のため慶長検地を実施しました。 この検地に反発した地侍達が、1614年の大坂冬の陣で手薄になった新宮城を目指して一揆を起こしました。 しかし、沿岸部の領民が浅野軍に味方したほか、一揆軍が熊野川を渡ることが出来ないでいる内に浅野軍が戻り鎮圧しました。 紀伊では似たような一揆が半年後の大坂夏の陣の際にも発生しており、豊臣軍が一揆と連動して浅野氏を挟撃しようとしたという説もあります。 赤木城は主郭の周りを東西南北の4つの郭が配置されています。 南郭から主郭に至る斜面は緩やかですが、他の3方は険しい断崖となっています。 それぞれの郭は石垣で囲まれており、特に主郭の入口に当たる虎口は厳重に造られています。 周囲の尾根には堀切を入れるなど山城の要素が強いですが、近世城郭に見られる特徴も併せ持っており、とても見応えのある城です。

●続日本100名城スタンプ設置場所●
 熊野木紀和鉱山資料館(地図)
 開館時間:9時〜17時(入館は16時半まで)
 休館日:月曜日(祝日の場合その翌日)、12月29日〜1月3日
 入館料:大人300円、小中学生100円


駐車場から見たところ

城内への道

伝鍛冶屋敷跡の曲輪

東郭の門跡

東郭の石垣

東郭から見た本丸

本丸にある説明板の図

上から見た西郭

西郭の一番上の段の石垣

西郭の一番下の段の石垣

西郭から見た南郭

南郭の段

南郭の一番下から見上げたところ

東郭から本丸への1つ目の虎口

2つ目と3つ目の虎口

3つ目の本丸の虎口

上から見た2つの虎口

本丸から見た東郭

本丸

城址碑

本丸から見た北郭

北郭と本丸の石垣
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