ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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赤木城
2011/8/17記
(2011/7/31訪問)

本丸の虎口の石垣
●概要●
室町時代の紀伊は寺社勢力が強く、寺領は朝廷も幕府も無断で立ち入ることができず、徴税権も及ばなかった。紀伊国守護の畠山氏でさえ、領国経営では寺社勢力の協力なしには成り立たない程であった。羽柴秀吉は根来寺や雑賀衆、高野山、粉河寺といった紀伊の諸勢力を制圧し、羽柴秀長が和泉・紀伊・大和を支配するようになった。支配地で徴税するためには当然のことながら検地が必要であるが、この検地に反対して奥熊野の地侍を中心として一揆が勃発した。秀長は自ら出陣し、奥熊野地方は秀長の代官・吉川平助が活躍して一揆を鎮圧した。当時、熊野は材木の産地として有名であり、畿内の建築ラッシュと相まって材木が高値で取引されていた。熊野を領地にしていた秀長はかなりの富を得ていたが、吉川平助がこの材木の売上げを横領したことが発覚。平助は秀吉により処刑され、秀長もしばらくは秀吉に許してもらえなかったという。この後に奥熊野の地に赴任してきたのが藤堂高虎である。高虎は領民統治のために城を築いた。当時、紀伊では大名同士で行うような大規模な戦が無かったため、規模もそれ程大きくは無かった。総石垣造りの城が完成した時、高虎は領民達に登城して祝儀をのべるよう令を出したが、一揆の首謀者が登城すると一人ずつ奥へ通して捕え、田平子峠で打ち首にした。その数は数百人にのぼるという。それ以来、高虎が赤木城に在任した間、一揆は全く起きなかった。その後、浅野長晟が紀州藩主となり、身分確定のため慶長検地を実施した。この検地に反発した地侍たちが、大阪冬の陣で手薄になった新宮城を目指して一揆を起こした。だが、沿岸部の領民が浅野軍に味方した他、一揆軍は熊野川を渡ることが出来ないでいる内に浅野軍が戻り鎮圧した。紀伊では似たような一揆が半年後の大阪夏の陣の際にも発生しており、豊臣軍が一揆と連動して隣接する浅野氏を挟撃しようとしたという説もある。赤木城は本丸の周りを東西南北の4つの郭が配置されている。南郭から本丸に至る斜面は緩やかだが、他の3方は険しい断崖となっている。それぞれの郭は石垣で囲まれており、特に本丸の入口に当たる虎口は厳重に造られている。周囲の尾根には堀切を入れるなど山城の要素が強いが、近世城郭に見られる特徴も併せ持っており、とても見ごたえのある城である。

●歴史●
1586(天正14)年 太閤検地に反対する地侍を中心とする北山一揆が勃発する。
1589(天正17)年 藤堂高虎が粉河に赴任し、赤木城を築く。
1594(文禄3)年 藤堂高虎は伊予国宇和島へ移封となる。
1613(慶長18)年 浅野長晟が紀州藩主となり、慶長検地を実施。
1614(慶長19)年 大阪冬の陣で手薄となった隙を突き、熊野地方の地侍たちが一揆を起こした。
この時も赤木城が一揆鎮圧の拠点となった。
  廃城時期は不明


登城口

立派な石垣が迎えてくれる

本丸にある石碑

縄張図(クリックで拡大)

●地図● 三重県熊野市紀和町赤木
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