ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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田辺城
2016/2/23更新
2009/9/12
(2008/5/3訪問)

彰古館と大手門
●概要●
織田信長の命によって丹後の一色義道を滅ぼした細川藤孝がこの地を与えられ、城を築き、丹後経営の中心とした。隠居後は、子の忠興を入城させた。関ヶ原の戦では石田三成の誘いを退け、東軍に加勢。隠居していた藤孝は宮津城では攻勢を防げないと考え、田辺城に入城して西軍・1万5千人を迎え撃った。包囲は50日にも及ぶ長期戦となり、弾薬が尽きた藤孝は「古今伝授の書」が戦火で失われることを恐れ、後陽成天皇に献上。藤孝の戦死を憂いた後陽成天皇の仲介で和議が成立し、藤孝は敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入った。戦後、細川忠興は小倉に加増・転封され、京極高知が入城。宮津城を再築して宮津城へ本拠地を移した。このとき田辺城は破壊されたが、次男・高三が田辺藩を継承し、石垣の修復や櫓の再建が図られた。京極氏が3代続いた後、牧野氏が1668年に入封すると、代々世襲し明治を迎えた。現在、城跡は公園になっており、二層櫓の彰古館と城門が復興されている。
 
●歴史●
1578(天正6)年 織田信長の命を受けた、細川藤孝・明智光秀は一色義通を滅ぼして丹後を平定。
1580(天正8)年 宮津城の支城として築く。
1600(慶長5)年 関ヶ原には忠興が出陣。幽斉(藤孝)は宮津城を焼き払い田辺城に篭城。
戦後、忠興は豊後へ移封し、京極高知が入城。
1668(寛文8)年 京都所司代を退いた牧野親成が入城。10代続いて明治を迎える。
1873(明治6)年 廃城となった。
1940(昭和15)年 二層櫓の彰古館が復興された。
1997(平成4)年 田辺城資料館として城門が復興された。

細川 藤孝
(ほそかわ ふじたか)

1534年4月22日、三淵晴員の次男として京都東山に生まれる。7歳で細川元常(三淵晴員の兄)の養子となった。12歳の時に将軍・足利義藤(後の義輝)から「藤」字の偏諱を受け、細川藤孝と名乗るようになった。将軍義輝に仕えるが、1565年に義輝が暗殺されると、義輝の弟・一乗院覚慶(還俗後は義昭)を救出し、六角義賢、朝倉義景らを頼って将軍任官に奔走した。その後、明智光秀を通じて織田信長に助力を求めた。織田信長が入京するのに伴って大和や摂津を転戦。義昭と信長の対立が表面化すると信長に従った。石山合戦、紀伊雑賀攻めの他、明智光秀の与力として活躍し、光秀とともに平定した丹後11万石を与えられ、宮津城を居城とした。本能寺の変では光秀の再三の要請を断り、幽斎玄旨と号して隠居し、忠興に家督を譲った。その後、豊臣秀吉に重用され、紀州征伐、九州征伐にも参加した。幽斎は千利休らとともに文化人として寵遇され、忠興とともに利休の高弟となる。一方、徳川家康とも親交があり、秀吉の死後は家康に接近した。関ヶ原の戦では500に満たない手勢で田辺城に篭城し、1万5000人の大軍に包囲された。攻囲軍の中に幽斎の弟子も多く戦闘意欲が乏しかったこともあり長期戦となり、後陽成天皇の勅命により講和が結ばれた。このことで忠興とは一時不仲となる。戦後、豊前39万9000石の大封を得たが、京都吉田で悠々自適な晩年を送った。1610年8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。

●案内●
開館時間 公園は常時開放
資料館は9:00〜17:00
入館料 無料
休館日 月曜日。月曜日が祝日の場合はその翌々日。
祝日の翌日。
年末年始(12月29日〜1月3日)

●地図● 京都府舞鶴市南田辺
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