ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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人吉城
2009/10/4記
(2008/8/6訪問)

角櫓・長塀と多聞櫓(復元)
●概要●
1205年、相良長頼が肥後国人吉荘の地頭に任ぜられ、城を拡張し人吉城の基礎を造った。19代当主の相良義陽は球磨地方を統一し、天正年間(1573〜93年)より城の大改修を始めた。途中に度々中断があり、22代・頼寛の1639年に漸く近代城郭に生まれ変わった。豊臣秀吉の九州征伐や関ヶ原の戦いも巧みに切り抜け、相良氏は明治まで続いた。1871年の廃城後、1877年の西南戦争で建造物が全焼した。1989(平成元)年に角櫓が、1993(平成5)年には大手門脇多聞櫓と続塀が復元された。

●歴史●
1205(元久2)年 遠江国相良荘国人の相良長頼が肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた。
1526(大永6)年 日向真幸院を治める北原氏が率いた大軍に包囲される。
相良義滋は策を用いて北原氏を追い返した。
1573〜81年の間 19代・相良義陽によって城の大改修が始められた。
天正9(1581)年 島津氏に降伏し臣従する。義陽は島津義弘の命令で盟友・甲斐宗運を攻め、響野原で戦死した。
1587(天正15)年 羽柴秀吉の九州征伐があり、もこれに降伏。
家臣・深水長智の交渉により人吉城と領地を安堵された。
1600(慶長5)年 関ヶ原の戦いでは当初西軍であったが、石田三成が破れると東軍に内応し、領地を安堵された。
1639(寛永16)年 22代・頼寛の代に近世城郭として完成した。
1871(明治4)年 廃藩置県により廃城となった。
1877(明治10)年 西南戦争で西郷隆盛軍の拠点となり戦闘が行われた。
1989(平成元)年 角櫓が復元された。
1993(平成5)年 大手門脇多聞櫓と続塀が復元された。
2005(平成17)年 人吉城歴史館が開館。

相良義陽
(さがら よしひ)

1544年、相良晴広の長男として生まれる。初名を頼房。12歳の時に父・晴広が死去したため、第18代当主として家督を継承した。幼少であったため、実権は祖父・上村頼興が握っていた。その後2度にわたり家督相続を巡る内紛が起きたがこれらを抑えた。20歳の頃から菱刈氏と共に大口城をめぐって島津氏と何度も戦ったが、25歳の時に砥上合戦で敗北し、薩摩における領土を失った。その後も伊東氏と組んで島津氏に対抗するが、35歳の時に水俣城が陥落。その後も島津氏の猛攻が繰り返されたため、葦北郡を割譲し、息子の忠房・頼房を人質として差し出すことで降伏した。降伏後、島津義久は義陽に阿蘇氏攻めを命じた。義陽は阿蘇氏の軍師・甲斐宗運とは親友の間柄であったが逆らうことが出来ず、白木妙見社で自らの死を祈願して出陣した。相良軍は、阿蘇氏の出城、甲佐城、堅志田城を落とし、守りには向かない響野原にわざと本陣を敷いた。宗運は義陽の陣を奇襲し、相良勢は壊滅。義陽は退却を勧める家臣を無視して、床机に座ったまま敵兵に斬り殺されたという。享年38。義陽の死に島津義弘、甲斐宗運ともに悲嘆したと言われている。宗運は「これで島津氏の侵攻を防げる者が居なくなった。阿蘇家も後数年の命脈であろう」と述べたと言われている。


球磨川沿いにある水ノ手門跡

堀合門(復元)

御下門跡

武者返しの石垣

大手門脇多聞櫓(復元)

角櫓(復元)

●案内●
人吉城歴史館(100名城スタンプ設置場所)
入館料 大人200円、高校生以下無料
開館時間 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日 毎月第2月曜日(休日の場合はその翌日)
年末年始(12月29日〜1月3日)
※城跡は常時公開

●地図● 熊本県人吉市麓町

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