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そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。
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玉縄城
2017/3/20更新(訪問日 2011/5/8)

遠景
◆概要◆
玉縄城は伊勢宗瑞(北条早雲)が三浦氏を三浦半島に追い詰めた際、扇谷上杉家から三浦氏への援軍を防ぐため三浦半島の付け根に築いた。初代城主は北条早雲の次男・北条氏時が務めたが、以後は地黄八幡で有名な北条綱成が城主となった。玉縄城は三浦氏を滅ぼした後も相模国東部の拠点として機能し続けた。1590年に後北条氏が滅びるまでの約80年間、上杉謙信や武田信玄などが後北条氏を攻めたが、玉縄城は一度も落城したことがなかった。豊臣秀吉による小田原征伐の際は、北条綱成の孫・氏勝が城主であった。徳川家康の猛将・本多忠勝が猛攻を加えたが落ちず、徳川家康は北条氏勝の叔父で大応寺住職・了達を通して説得し、開城となった。その後、本多正信、水野正忠などが城主を務めたが、1703年に廃城となった。昭和30年代までは遺構が残されていたが、本丸跡に学校が建設され、周囲も宅地造成が進められ遺構はかなり消滅した。土塁などが残っている諏訪壇は学校の敷地内にある。

北条綱成(ほうじょうつなしげ)
1515年、今川家家臣・福島正成の子として生まれたとされる。幼名は勝千代。北条氏に身を寄せた経緯には2つの説がある。1つは7歳の時に父・福島正成が甲斐へ攻め込んだ際、父をはじめ一族の多くが武田信虎の家臣・原虎胤に討ち取られたため。もう1つの説は、今川家の家督相続争いである「花倉の乱」で、福島氏が玄広恵探(今川良真)を支持して栴岳承芳(今川義元)に敗れ、北条氏綱の元へ落ち延びた、というものである。北条氏綱は綱成を大そう気に入り、娘婿として一門に加えた。北条氏綱の子・北条為昌の後見役も任され、1542年に玉縄城主であった北条為昌が没すると、その次の城主となった。後北条氏の「北条五色備え」では「黄備え」を担った。「八幡」の文字が書かれた黄色い旗を用い、戦では常に先頭にたって「勝った、勝った」と叫んだという。1546年の河越夜戦や1563年の国府台合戦、1570〜71年の深澤城での籠城戦などで多くの戦功を挙げ、後北条家中随一の猛将として武名を轟かせた。1571年10月に北条氏康が病死すると、北条綱成も家督を子の北条氏繁に譲って隠居。剃髪して上総入道道感と名乗った。1587年5月6日、病のために死去。享年73。



住宅街にある城址碑

ツツジの陰にあり目立たない

玉縄城址の文字

遠くから見た七曲坂

七曲坂の看板

上から見た七曲坂

ふあん坂

陣屋坂

玉縄番匠・小坂家の長屋門(城の遺構ではない)
●地図● 神奈川県鎌倉市城廻

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