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そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。
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蒔田城
2017/3/12更新(訪問日 2011/9/24)

勝国寺
◆概要◆
蒔田城は室町時代に足利氏の支流・武蔵吉良氏が後北条氏に招かれて居城としていた。武蔵吉良氏は鎌倉時代に足利氏3代目の足利義氏の子・義継が吉良姓を名乗ったことに始まる。吉良義継は奥州で活躍したため「奥州吉良氏」と呼ばれていた。吉良義継の兄も三河で吉良姓を名乗っており、こちらは三河吉良氏と呼ばれた。吉良氏は「御所(足利氏)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われる程の名門であったが、領地は少なく地方の一土豪並の兵力しか持たなかった。武蔵吉良氏の初代は吉良治家で、足利氏の一族ということで1366年に初代鎌倉公方・足利基氏に招かれ世田谷郷を与えられた。蒔田が吉良氏に与えられたのは吉良成高か吉良頼康の頃と考えられる。吉良成高は太田道灌と同時代(1470年代)の人物で、太田道灌からは「吉良殿様」と尊称されていた。吉良成高の子・頼康は北条氏綱の娘を妻に迎えている。時期的には北条氏綱が江戸城を支配下に収めた頃(1524年頃)であり、蒔田に館を構えたのも吉良頼康と考えられる。吉良氏の城はそれぞれ「世田谷御所」、「蒔田御所」などと呼ばれていた。吉良頼康は北条氏綱が鶴岡八幡宮を再建した際に巨額の寄付をしている。この時の様子を快元という僧が『快元僧都記』に記しているが、北条氏綱を「氏綱」と呼び捨てしたのに対し、吉良頼康のことは「吉良殿様」と敬称で綴っている。このことからも、吉良氏が関東武士の中でも傑出した家格を誇っていたことが窺われる。北条氏からどれだけ大切にされていたのかを示すもう一つの事例が、1569年に起きた武田信玄による小田原城攻めの時にあった。蒔田城の守備は青木城主・多米周防守が行ったが、多米氏は北条早雲が伊勢新九郎と名乗り、挙兵する前から親交のある「伊勢七騎」の内の一家で、重臣中の重臣であった。その多米氏が蒔田城を守るため、自身の青木城には兵を置かなかったのである。この時、武田信玄は蒔田城も青木城も攻めなかった。だが、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、吉良頼康の養子・吉良氏朝は所領を失って旧領・世田谷にある実相院で隠居した。その後、吉良氏朝の子・頼久が徳川家康に取り立てられて高家旗本となり、蒔田姓を名乗るようになった。1701年に元禄赤穂事件で三河吉良氏の子孫・吉良上野介が改易された後は吉良姓に復姓した。現在、蒔田城跡の大部分は横浜英和女子学院の敷地となっており、遺構は壊滅している。その南側には1479年に吉良政忠が父・頼高を供養するために建立した勝国寺が残る。


勝国寺にある説明板

勝国寺の由来が記された石碑
●地図● 神奈川県横浜市南区蒔田町

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