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そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。
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鎧摺城
2017/3/8更新(訪問日 2011/9/24)

全景
◆概要◆
鐙摺城は平安時代末頃までに三浦氏により築かれていたと考えられる。三浦氏は前九年の役(1051〜62年)の戦功により三浦為通が源頼義から三浦半島を与えられたとする説があるが、後三年の役(1083〜87年)の戦功として三浦為継が三浦半島を与えられたとする説の方が有力である。地理的には三浦半島の付け根に位置し、鎌倉から江ノ島にかけて一望することができる。ただし、歴史に登場するのが石橋山合戦の直後からであり、すぐ目の前の由比ヶ浜での遭遇戦で偶発的に周囲を一望できる小さな岩山に陣取っただけなのかもしれない。鐙摺山の名の由来は、石橋山で源頼朝が挙兵する3年前まで遡る。源頼朝が密かに三浦氏を訪ねた際に立ち寄り、馬の鐙が地に摺れたことがその名の由来とされる。小さな山ではあるが、急峻な崖に囲まれている。鎌倉時代には三浦氏の一族がこの地に城を築いて居城とした。1247年の宝治合戦で一度は北条得宗家に滅ぼされた三浦氏であったが、庶流の佐原氏が三浦氏を再興。その後も鎌倉幕府の重鎮であり続けた。室町時代に入ると扇谷上杉氏の配下として相模に勢力を保っていたが、伊勢宗瑞が相模に進出してくると敗れ、1516年には新井城での3年に及ぶ篭城戦の末に三浦氏は滅亡した。現在、城跡は特に目立った遺構は無いが、伊東祐親の供養塔が残されている。伊東祐親は娘の八重姫と幽閉中の源頼朝との間に子が出来たことに激怒し、平家の追窮を恐れて千鶴丸を殺めていた。平家方として戦った富士川の合戦で捕らえられたが、娘婿である三浦義澄の助命嘆願により命は助けられていた。しかし、千鶴丸の事もあり、潔しとしなかった伊東祐親は自刃して果てた。
◆歴史◆
1180年 三浦義澄が由比ヶ浜で畠山重忠の軍勢と遭遇した際に陣を敷いた。
鎌倉時代 三浦義明の3男・大多和義久が居城とする。
1512年 伊勢宗瑞(北条早雲)により岡崎城を追われた三浦義同(道寸)が、三浦半島へ向かう途中に立ち寄る。

登城口

本丸

城跡からの展望(西側)

伊東祐親の供養塔
●地図● 神奈川県三浦郡葉山町堀内

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