ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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土浦城
2009/12/2記
(2008/7/5・2009/12/12訪問)

太鼓櫓門(現存)

●概要●
土浦城は霞ヶ浦付近の湿地帯にあり、度々水害に遭っているが水没することがなく、水に浮かぶ亀のように見えたことから亀城(きじょう)の異名を持つ。本丸・二の丸を中心に三の丸・外丸の他、武家屋敷や町屋を含めて北門・南門・西門を結ぶ濠で囲む総構えであった。戦国時代は小田氏の支配下にあり、江戸時代には結城秀康をはじめ松平(藤井)氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平(大河内)氏とめまぐるしく城主が代ったが、土屋政直が入城してからは、明治維新に至るまで土屋氏(9万5000石)の居城となった。1873(明治6)年に廃城となり、本丸跡は土浦県庁、新治県庁、新治郡役所、自治会館などに利用された。現在は本丸と二の丸の一部が亀城公園として整備されている。本丸表門の櫓門、裏門の霞門、二の丸と外丸の間に移建された旧前川口門(高麗門)が現存しており、東櫓と西櫓が復元されている。

●歴史●
1429〜41年の間 常陸の豪族・小田氏に属する若泉(今泉)三郎が築城した。
1516(永正13)年 小田氏の部将・菅谷勝貞が城を奪う。
1590(天正18)年 豊臣秀吉の小田原征伐の際、菅谷範政は北条氏と結んだため滅ぼされた。
徳川家康が関東に移り、次男の結城秀康に土浦10万石を与えた。
1600(慶長5)年 秀康が越前国67万石に移封。藤井松平家の松平信一が3万5千石で入封。
1617(元和3)年 松平信吉が上野国高崎に転封となり、西尾忠永が2万石で入封。
以後、西尾氏・朽木氏が城主となる。
1669(寛文9)年 土屋数直が4万5千石で入封。
1682(天和2)年 土屋政直が駿河国田中に移り、大河内松平家の松平信興が入封。
1687(貞享4)年 松平信興が大坂城代に転じ、土屋政直が再び6万5千石で入封。
以後土屋氏が11代、約200年間世襲して明治維新に至った。
3度の加増を経て9万5千石となり、常陸国では水戸藩に次ぐ大藩となった。
1873(明治6)年 太政官符令第84号で廃城となった。本丸御殿は新治県の県庁、新治郡の郡役所として使われた。本丸の他の建造物もほとんど残されたが、土塁上の塀は取り壊された。二の丸以下の建物は外丸御殿を除き取り壊され、堀が埋められた。
1884(明治17)年 火災で本丸御殿が焼失。このとき損傷した東櫓と鐘楼も撤去された。
1899(明治32)年 本丸と二の丸南側が亀城公園となった。
1950(昭和25)年 前年のキティ台風で西櫓が破損。復元するという条件で解体された。
1992(平成4)年 保管されていた部材を用いて西櫓が復元された。
1998(平成10)年 土浦市立博物館の付属展示館として東櫓が復元された。

結城秀康
(ゆうき ひでやす)

1574年、徳川家康の次男として生まれた。ただし、母親が正室・築山殿の奥女中・於万の方であり、築山殿の悋気を恐れて本多重次のもとに預けられた。父・家康に嫌われ、満3歳になるまで対面を許されなかった。兄・信康の切腹により本来ならば後継者となるはずであったが、小牧・長久手の戦後、羽柴秀吉との和解条件として秀吉のもとへ人質として差し出された。その直後、元服して秀吉と家康の名を一字ずつ取り「羽柴秀康」と名乗った。1587年の九州征伐で初陣を果たし、抜群の功績を挙げた。しかし、秀吉に男児が誕生すると、秀康は結城晴朝の姪と婚姻し、結城秀康を名乗った。関ヶ原の戦いでは上杉景勝を牽制する留守居の役目が与えられた。本多正信に説得されやむなく残ったという逸話が伝わる。戦後、下総10万石から越前67万石に加増移封された。1604年には松平氏の姓に復することも赦されているが、秀康は一生「結城」のままで通したといわれる。1605年に権中納言に昇任。1607年には伏見城番に任じられたが、病のため越前へ帰国し、閏4月8日死去。享年34。死因は梅毒とされるが、器量が自分より優れていた秀康の存在を恐れた弟・秀忠か、豊臣家寄りの姿勢を崩さなかったため、加藤清正などと同様に父・家康により暗殺されたとする説もある。



東櫓(復元)

西櫓(復元)

霞門(現存)

旧・前川口門(移築)

●地図● 茨城県土浦市中央1丁目

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