ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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姫路城
2016/2/21更新
2008/6/9記
(2007/4/7訪問)

現存天守
●概要●
12ある現存天守(江戸時代以前に建造された天守を有する城郭)の1つである。築城以来、廃城や戦火の危機を免れ天守を始め多くの建造物が現存している。うち大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物が重要文化財に指定されている。1993年には法隆寺とともにユネスコの世界遺産に登録された。白壁の美しい城であり、別名で「白鷺城」(はくろじょう)と呼ばれる。時代劇を始めとして映画などのロケが行なわれることも多い。姫路城の築城者は南北朝時代・正平元年(1346年)の赤松貞範とする説が有力であるが、砦と呼ぶべき小規模なもので、「城」と呼べる規模としては、16世紀に黒田重隆が築城したのが最初であるという異説もある。戦国時代は黒田孝高(如水)が羽柴秀吉に献上し、毛利氏攻略の本拠地となった。江戸時代初期に池田輝政によって、今日見られる天守等が築かれた。輝政による築城はちょうど関ヶ原の戦いと大坂の役の間であり、ゆえに極めて実戦本位となっている。姫路城の縄張りは、天守の建つ姫山山頂を中心に時計と逆回りに渦巻き状に曲輪・堀が配置されている。菱の門通路は迷路のように曲がり、天守へまっすぐ進めないようになっている。本来の地形や秀吉時代の縄張を生かしたものと考えられている。門もいくつかは一人ずつ通るのがやっとの狭さであったり、分かりにくい場所にあったりと、ともかく進みづらい構造をしている。当然これは防御のためのものであり、敵を迷わせ分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫がなされている。結局天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないような構造になっている。姫路城は別名で「白鷺城」(はくろじょう)と呼ばれるが、由来は以下のような説がある。

 ・姫路城が「鷺山」に置かれているところから。
 ・白漆喰で塗られた城壁の美しさから。
 ・ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから。
 ・黒い壁から「烏城」とも呼ばれる岡山城との対比から。

他に「しらさぎじょう」とも読まれることもあるが、日本の城郭の異称は基本的に音読みであってこの読みは正しいものではない。姫路城の所在地「姫路市本町68番地」は、日本の番地では皇居のある「千代田区千代田1番地」に次いで広い面積を有する。本町68番地には他に医療センター・警察署・学校など多数の施設が存在している。

●歴史●
1333(元弘3)年 赤松則村が後醍醐天皇の第一皇子、護良親王の命により挙兵。
京に兵を進める途中、姫山に砦(とりで)を築く。
1346(正平元)年 赤松則村の次男・貞範が姫山に本格的な城を築く。
1441(嘉吉元)年 嘉吉の乱。
赤松満祐父子、六代将軍・足利義教を謀殺するが、幕府軍に攻められて自害。
山名持豊が姫路城主となる。
1467(応仁元)年 応仁の乱。
細川方についた赤松政則が姫路城を陥落し、領国を回復。本丸と鶴見丸を築く。
後に赤松一族の小寺氏とその重臣の黒田氏が城をあずかる。
1580(天正8)年 羽柴秀吉の中国攻略のため、黒田孝高(のちの如水)が城を献上。
秀吉は3層の天守閣を築き、翌年に完成。
1583(天正11)年 秀吉は天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動。
弟・羽柴秀長が城主となる。
1585(天正13)年 ねねの兄・木下家定が姫路城主となる。
1600(慶長5)年 関が原の戦の後、池田輝政が姫路城主となり播磨52万石を治める。
1601(慶長6)年 池田輝政、城の大改築を始める。
秀吉時代の天主は乾小天守に組み直されて現在に姿を残している。
1609(慶長14)年 現存する5層の天守閣を含む大城郭が完成。
1617(元和3)年 池田光政が幼少なため、鳥取城へ移る。
本多忠政が城主となる。三の丸、西の丸、そのほかを増築。
1639(寛永16)年 松平忠明が城主となる。
1649(慶安2)年 榊原忠次が城主となる。
1682(天和2)年 本多忠国が城主となる。
1704(宝永元)年 榊原政邦が城主となる。
1741(寛保元)年 松平明矩が城主となる。
1749(寛延2)年 酒井忠恭が城主となる。
以後明治維新まで酒井氏が姫路城主となる。
1869(明治2)年 酒井忠邦が版籍を奉還し、姫路城は国有になる。
1873(明治6)年 廃城令後競売に付され、城下の米田町に住む個人、神戸清一郎が23円50銭で落札。
1874(明治7)年 歩兵第十連隊が設置された。本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。
1882(明治15)年 失火で備前丸を焼失。
1910(明治43)年 国費9万3千円が支給され「明治の大修理」を実施。
1919(大正8)年 陸軍省が西の丸を修理。
1931(昭和6)年 姫路城天守閣群と渡り櫓(合計8棟)が国宝に指定される。
1945(昭和20)年 7月3日、姫路大空襲。
大天守にも焼夷弾が直撃したものの不発。奇跡的に炎上を免れた。
1951(昭和26)年 新国宝に指定される。
1956(昭和31)年 天守閣、国費により8か年計画で解体修理着工(昭和の大修理)。
1964(昭和39)年 天守閣群の全工事完了。
1993(平成5)年 ユネスコの世界文化遺産に登録される。
2009(平成21)年 平成27年3月末までの予定で「平成の大修理」を開始(大天守を修復中)

●姥が石(うばがいし)●
羽柴秀吉が姫山に三層の天守を築く際、石垣の石集めに苦労していた。城下で焼き餅を売っていた老婆がこれを知り、石臼を秀吉に差し出した。秀吉は老婆の志に大変喜んだ。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進し、工事が順調に進んだという。実際に乾小天守北側の石垣には石臼があり、他に石棺も使用している。石垣に使えそうな石をまさしくかき集めた名残である。

●宮本武蔵の妖怪退治●
木下家定が城主時代のこと。宮本武蔵は名前を隠し足軽奉公をしていた。その頃、城に妖怪が出るという噂が広まっていたが、武蔵が平気で夜の出番を勤めていたことが家老の耳に入り、名高い武芸者であることが知られた。ある夜、灯ひとつを持って天守閣に登り、3階の階段にさしかかった時、すざましい炎が吹き降り、地震のような音と振動。武蔵が腰の太刀に手をかけると、辺りはまた元の静けさに戻った。4階でもまた同じことがあったが、構わず天守を登った。明け方まで番をすると美しい姫が現れ「われこそは当城の守護神、刑部明神なり。その方が今宵参りしため、妖怪は恐れて退散したり。よって褒美にこの宝剣を取らす。」といって姿を消した。武蔵の前には白木の箱に入った銘刀・郷義弘が残されていた。

●棟梁源兵衛の伝説●
棟梁・桜井源兵衛は築城の大仕事を終えて、妻と共に天守を見に訪れた。ところが妻は「東南方向に少し傾いているのではないか」と指摘。これにショックを受けた源兵衛は天守から鑿(のみ)をくわえ飛び降り自殺をしてしまった。「昭和の大修理」の際、原因は礎石が沈んだためであると確認された。

●榊原騒動●
城主榊原政岑は信仰心に厚く、ゆかた祭を始めたことでも知られる心豊かな城主であった。しかし、日光代参の希望が幕府に聞き入れられず不満を持ち、酒色におぼれて、吉原通いを始めた。そして「色婦録」にも艶名をうたわれた名妓高尾を落籍。姫路に連れ帰り、城内西屋敷に住まわせた。これらの行状が、当時倹約を推し進めていた幕府に知れ、政岑は糾弾。やがて政岑は20代の若さで隠居を命じられ、榊原家は越後高田へ転封。高尾も政岑に従い、共に越後高田へと下った。

●23円50銭●
廃藩置県により無用の長物となった各地の城は、保存に巨額の経費がかかるため、次々に廃棄され売りに出された。姫路城も例外でなく、競売の結果、市内の神戸清一郎という人がわずか23円50銭で落札。城の瓦を売るのが目的であったという。しかし、解体費用がかかりすぎるという理由でそのままにされ、権利を放棄した。

●100名城スタンプ設置場所●
姫路城管理事務所

●案内● 2016/2/21現在
開城時間 9:00〜16:00(閉門 17:00)
※4月27日〜8月31日は9:00〜17:00(閉門 18:00)
入城料 大人(18歳以上)1000円、小中高校生 300円
休城日 12月29、30日

●地図●

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