ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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赤穂城
2016/2/21更新
2009/8/1記
(2008/5/4訪問)

復元本丸門
●概要●
関ヶ原の戦功により播磨一国が池田輝政の所領となり、重臣・垂水勝重に命じて陣屋造りの一重の堀に囲まれた掻き上げの城を築いた。江戸時代には赤穂藩の藩庁が置かれ、浅野氏が城主となってから本格的に築城された。銃砲撃戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なよう横矢掛かりが数多く用いられている。赤穂藩5万石には過度に広壮で、これがために財政難に陥った。5層天守の造営も計画されていたが築かれず、天守台のみが残っている。千種川より上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水されていた。日本三大上水道の一つに数えられている。明治時代前期に城内の建物は破却され石垣と堀のみが残っていたが、櫓・門・塀・庭園が再建された。現在もなお二の丸庭園を再建中である。
 
●歴史●
1600(慶長5)年 播磨一国の主となった池田輝政が、重臣・垂水勝重に赤穂城の前身である大鷹城を築かせた。輝政の弟・長政が赤穂領主となる。
1613(慶長18)年 輝政の2男・忠継が領主となる。
1615(元和元)年 忠継の弟・政綱が3万5千石を与えられ赤穂藩が立藩。
1631(寛永8)年 政綱が嗣子なく死去。弟の輝興が入封。
1645(正保2)年 輝興が発狂したため改易された。
浅野長直が5万3千石で入封。
1648(慶安元)年 幕府に許可を得て甲州流軍学による築城を開始。
1661(寛文元)年 赤穂城が完成した。
1701(元禄14)年 3代・浅野長矩が江戸城中での刃傷事件により切腹。
1702(元禄15)年 永井直敬が3万3千石で入封。
12月に大石内蔵助はじめ47名が吉良邸に討ち入る。
1706(宝永3)年 直敬転封。森長直が2万石で入封。廃藩置県まで森氏12代が城主となる。
1873(明治6)年 廃城令により廃城となる。
1876(明治9)年 順次建築物が破却される。
1955(昭和30)年 大手門、大手隅櫓再建。
1996(平成8)年 大手門枡形、本丸門および枡形、本丸厩口門が再建される。
現在 二の丸庭園を再建中。

池田輝政
(いけだ てるまさ)

1564年12月29日、織田信長の重臣・池田恒興の次男として愛知県清須市に生まれた。織田信長に仕え、信長の葬儀では羽柴秀勝とともに棺を担いだ。小牧・長久手の戦で父・恒興と兄・元助が討死したため家督を相続。紀州征伐や越中征伐、九州征伐など、秀吉の主要な合戦の大半に従軍した。秀吉が没すると徳川家康に接近。関ヶ原の戦では岐阜城攻略に功を挙げた。戦後、播磨姫路52万石に加増移封。姫路城を大規模改修し、現在の形にした。一族の石高を合計すると92万石に及び、「西国将軍」と呼ばれた。1613年1月25日、姫路にて中風で急死。享年50歳。輝政の死は秀吉の呪いとも噂された。


天守台

隅櫓

大石邸長屋門
浅野長直の赤穂藩入封以来、家老職を務めた大石家3代の長屋門。1701(元禄14)年、浅野長矩が江戸城松の廊下で高家の吉良義央に刃傷に及んだ。長矩は切腹し、播州浅野家は断絶。翌年12月、大石内蔵助をはじめとして47名が、吉良邸に討ち入った。いわゆる「忠臣蔵」である。間口28間(約50.5m)、奥行45間5尺(約83m)という大邸宅だったが、1729(享保14)年の火災で建物の大半を消失し、長屋門だけが現存している。

●100名城スタンプ設置場所●
大手櫓門、赤穂歴史博物館

●案内●
本丸
開園時間 9:00〜16:30(入園は16:00まで) ※本丸以外は常時開放
入園料 無料
休園日 年末年始(12月28日〜1月4日)

赤穂歴史博物館
開館時間 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
入館料 高校生以上200円、小中学生100円
休館日 水曜日。祝日の場合はその翌日。

●地図● 兵庫県赤穂市上仮屋
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