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そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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内出城
●地図・アクセス● 群馬県吾妻郡東吾妻町川戸 2017/9/17(訪問日 2014/4/12)
◆概要◆
内出城は川戸内出城とも呼ばれ、吾妻川を挟んで岩櫃城の対岸にあります。 現在、城域の殆どの部分は平らに馴らされて畑となっていますが、若干の段差があり、曲輪や堀の形が残っているようです。 西側の河岸段丘付近には、埋められずに残ったとみられる堀が残っています。

城の歴史は不詳ですが、『加沢記』では岩櫃城に拠った斎藤氏が、旧領主の吾妻氏を押し込めていたことが記されています。 「内出城」という名前の城は群馬県内にもう1ヶ所、ここから南の安中市にもあります。 そちらと合わせてググってみると、城主の名として同じ「秋間氏」の名が出て来ました。 はじめは城の名前が同じなので、史料が混乱しているのかと思いましたが、どうやらそうではなく、両城とも秋間氏が深く関わっているようでした。

秋間氏は元々は飽間氏と表記し、鎌倉時代始めに安中市秋間一帯を領地として与えられ、茶臼山城を本拠としました。 南北朝時代には南朝方として活動し、新田義貞と行動を共にしています。 1349年に吾妻郡が里見義基に奪われ吾妻行盛が戦死すると、その子・千王丸は榛名山に身を潜めて再起の機会をうかがいました。 翌1350年に榛名山の僧兵の力を借りてかつての居城・岩櫃城を夜襲したものの失敗し、安中の叔父・斎藤梢基を頼りました。 そして1356年、千王丸は斎藤梢基とその主・上杉憲顕の助けを得て里見氏を破り、旧領に復帰しました。 この時に、長年連れ添い功のあった秋間泰則に太田庄(内出城周辺)を与えたことになっています。

ただ、ここで吾妻郡最大のナゾである「斎藤憲行」が登場します。 そこかしこで千王丸が斎藤梢基を烏帽子親とし、上杉憲顕から一字拝領して斎藤憲行を名乗ったとされています。 しかし、同名の斎藤憲行が同時代に現れ、吾妻氏一族を内出城に監禁して吾妻郡一帯の盟主になっています。 また、当時の上杉憲顕は足利直義に味方したため足利尊氏の怒りを買い、信濃に追放されていた時期でもありました。 これらの状況から推測すると、上杉憲顕とその家臣である斎藤氏が、吾妻氏のために里見氏から吾妻郡を取り戻す大義名分で進出。 里見氏を滅ぼした後、千王丸が斎藤氏を烏帽子親に斎藤憲行と改名したことにして監禁し、吾妻郡を乗っ取ったのかもしれません。 実際、斎藤憲行は自分の6人の子に吾妻一族が支配していたはずの吾妻郡各地を分け与えています。 しかし、吾妻氏当主を殺してしまうと民心が離れるため、岩櫃城から近く、腹心・秋間氏が守る内出城に吾妻氏を軟禁したとすれば、すべての辻褄が合う気がします。

内出城はその後、長禄年間(1457〜61年の間)に斎藤憲行の5男を祖とする大野義衡が岩櫃城を攻めた際に落城し、その後の様子は不明となります。 ただ、秋間氏は滅びておらず、戦国時代に真田氏により斎藤氏が滅ぼされるまで続いています。


城域の殆どは畑となっています

その北側はこのような段差があります

段差に沿って若干窪んでいます

西側には堀が残っています

堀の端の土盛りに小さな祠があります

その周りがかなり窪んでいます

そのまま辿って行くとこうなっています

その先は虎口のようです

この辺りの道も堀跡のようです