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そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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阿岨城
●地図・アクセス● 群馬県利根郡昭和村橡久保 2017/7/23更新(訪問日 2014/4/19)
◆概要◆
沼田は西に利根川、東に片品川が流れる要害で、その片品川の東岸に阿岨城が築かれました。 沼田氏特有の崖端城であり、城主は沼田顕泰の側室の兄・金子泰清でした。 金子泰清が城主となったのが1573年のため、それ以前からあったものと思われます。 沼田は上杉謙信、北条氏政、武田勝頼が争奪戦を繰り広げた場所で、争いが絶えませんでした。 代々沼田を支配していた沼田氏でしたが、上杉謙信が沼田に直臣を置くようになると影が薄くなり、やがて同族の蘆名氏の元へ移りました。 1578年に後北条軍が沼田を攻めると、別行動をとっていたと思われる金子泰清が北条軍に協力し、沼田城城代の1人となります。 1580年には真田昌幸が沼田に攻め込みましたが、金子泰清はこの時に内応し、真田昌幸に仕えるようになりました。 翌年には由良氏の協力を得た妹の子・沼田景義が沼田に攻め込み、伯父である金子泰清に内応するよう調略を仕掛けました。 金子泰清は調略に乗ったふりをして沼田城へ誘い込み、沼田景義を謀殺しています。 1582年に北条氏邦が沼田を攻めた際には阿岨城も夜討ちに遭い、金子泰清は馬で崖を駆け下りて沼田城へ逃れたと伝わります。 沼田は豊臣秀吉の裁定により東側2/3が後北条領となり、この時に金子泰清は阿岨城を手放さざるを得なかったと思われます。 1590年に後北条氏が滅ぼされると沼田は真田領に戻りましたが、金子泰清は真田昌幸から追放されてしまいました。 真田昌幸に疎まれていたらしく、以後は妹婿の一場長左衛門を頼ったそうです。 周辺は一面の畑になっており二重の堀が残るだけとなっています。 北側は河岸段丘の崖が迫っているので一部崩落したと思われ、往時はもっと広かったと考えられます。


河岸段丘上に城がありました

城跡への道(北側)

畑じゃない所が城跡です

駐車場があります

石に説明板が貼られています

浅く残る堀跡と土塁

堀跡は深い所でも2メートル程

端は土塁も堀もブツっと切れています

その先は河岸段丘の崖となっています