現存天守
なぽのブログを検索 なぽのホームページを検索

江戸時代以前に建てられ、今日まで現存している天守閣を「現存天守」とよぶ。明治時代に発令された「廃城令」や戦乱などによりかなりの城郭建築が破却されたが、この時点では20の天守が残されていた。その後、太平洋戦争の際の空襲で7城の天守が破壊され、更に戦後の失火により1城の天守が焼失したため、現在では12城に天守が現存している。これら12城以外の天守は復元天守・復興天守・模擬天守のいずれかである。
弘前城
重要文化財に指定されている。堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめている貴重な城である。はじめは鷹岡城と呼ばれ、弘前城と改称したのは1628年のことである。江戸時代には弘前藩・津軽氏の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。現在は弘前公園となっている。1903年以降、2600本以上の桜が植えられ、桜の名所となった。
松本城
1510年頃、信濃守護・小笠原氏が築城したのが始まりといわれている。1550年に武田氏が信濃に侵攻し小笠原氏は没落したが、武田氏滅亡後に返り咲いた。徳川家康の関東転封の際は下総国古河へ移ったが、1613年に再び小笠原氏が城主となった。4年後に明石に移封となってからは度々城主が交代した。明治30年頃から天主が大きく傾き倒壊の危機にあったが、地元有志の活動により明治の大修理が行なわれ、現在に至る。
犬山城
別名を「白帝城」といい、荻生徂徠が命名したと伝えられる。木曽川を押さえる、軍事上・経済上・交通上の重要な拠点として重きをなしてきた。このように戦略的に重要な位置にあったためめまぐるしく城主が替わったが、1617年に尾張藩家老・成瀬正成が城主となって以降は代々成瀬家の居城となった。現在も成瀬家の子孫が理事長を務める財団法人「犬山城白帝文庫」が所有している。
丸岡城
1576年、柴田勝家の甥、勝豊により築かれた。 往時は本丸を中心に、北側に二の丸を設けて堀で囲み、さらにその周囲に三の丸を配し二重堀で囲んでいた。特に本丸・二の丸部分は最大幅50間(約90m)という広大な五角形を成す堀で囲まれていた。現存の天守閣は入母屋造りの屋形に回縁勾欄付きの望楼を乗せた形式である。これは犬山城や高知城と同様であり、直線的な屋根の破風、太い出格子、黒い板壁などは初期天守に顕著な特徴。屋根瓦には笏谷石製の石瓦が葺かれている。
彦根城
中山道と北国街道が合流し水陸から京に至る交通の要衝である。そのため戦略拠点として重視され、徳川家康は筆頭格の譜代である井伊直政をこの地に置いている。直政は、佐和山城が中世的な古い縄張や三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山での築城を計画。だが、関ヶ原での鉄砲傷が原因で1602年に死去した。遺臣が再検討の末、1603年、琵琶湖に浮かぶ彦根山に築城を開始。工事は天下普請であった。
姫路城
1346年に赤松貞範が築城したとする説が有力である。江戸時代に池田輝政によって天守等が築かれた。池田氏以降は松平氏や譜代大名が配置され、西国探題が設置された。天守を始め多くの建造物が現存し、うち大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されている。また1993(平成5)年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
松江城
重要文化財に指定されている。別名・千鳥城。宍道湖の眺望が良く、日本三大湖城の一つとなっている。本丸は天守と6つの櫓を配し、要害堅固な縄張である。松江城を建てた堀尾吉晴は加藤清正と並んで城普請上手といわれており、石高に比べ贅沢と賞されるほどであった。桃山様式の天守は高さ30m、五層六階であり、築城当時の姿で現存している。天守閣の最上部の屋根にある鯱は高さが約2mあり、これは現存している物では最大である。
備中松山城
重要文化財に指定されている。日本三大山城の一つ。本丸・二の丸・三の丸は標高430mの小松山に階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。1240年、有漢郷の地頭となった秋葉重信が大松山に城を築いたのが始まりとされる。。江戸時代の備中松山藩では山城が不便なため、山麓の御根小屋で藩の政務を行った。
丸亀城
丸亀市街地の南部に位置する亀山(標高66m)を利用し、日本一高い60mの石垣は、荒々しい野面積みと端整な算木積みの絶妙な組み合わせにより扇の勾配と例えていうことがある。天守は日本で最も小さいが、高い石垣とその扇の勾配の効果によりそれを補っている。
松山城
現存12天守の中では姫路城と同じく、大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を渡り櫓(廊下)で結んだ連立式である。日本で現存数の少ない望楼型二重櫓である野原櫓(騎馬櫓)もある。また、社寺建築に用いられる正面扉様式(蔀戸・しとみど)を持つ本壇天神櫓は全国的にもあまり例はない。敷地一帯は国の史跡に指定されており、建造物21棟は国の重要文化財となっている。
宇和島城
1601年に藤堂高虎により現在の五角形の縄張りの城がつくられた。東側に堀、西側半分が海により守られていたが、現在は堀も海も埋め立てられている。天守と上り立ち門、石垣が現存する。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。
高知城
1603年、山内一豊により築城。天守は一豊の前任地である掛川城を模したと言われている。創建時の天守は1727年に焼失。1747年に焼失以前のものを忠実に再建されており、高欄を設けるなどやや古風な形式(復古式)をとっている。