ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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柳川城
2010/12/31記
(2008/8/7訪問)

石碑
 
●概要●
並郭式に本丸と下段の二の丸を並べ、三の丸の代わりに中堀を廻らした城内と呼ばれる広大な内郭と市街地を総構えとする平城であった。掘割に包まれた天然の要害をなし、城内、市街には無数の堀が縦横に交わり今も柳川の堀川として現存する。蒲池氏の城主時代に「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」と大友氏陣中で歌われた戯れ歌にもあるように攻略には3年かかるという九州屈指の難攻不落の城と謳われた。城の周囲に水路を縦横に張り巡らせた九州屈指の難攻不落の城とされる。蒲池鑑盛(蒲池宗雪)は兵法者で知将でもあったが、築城家としても技量が高かったことを示している。蒲池鎮漣が城主の時には龍造寺隆信と鍋島直茂が、蒲池氏が滅亡し鍋島直茂が城主の時には大友氏の勇将・立花道雪が攻めたが、落とすことが出来なかった。豊臣秀吉の九州征圧後は、立花道雪の養子である立花宗茂が城主となった。関ヶ原の戦いの際は、鍋島直茂らがここを攻め、黒田如水、加藤清正らの取り成しで降伏開城している。戦後は田中吉政が城主となるが、江戸時代初期に田中氏が改易されると立花宗茂が再び城主となり、明治まで柳川藩立花氏の城となった。明治5年の火災で殆どの建築物が焼失し、現在本丸跡地は柳川中学校と柳川高校の敷地となっている。

●歴史●
文亀年間
(1501〜04年の間)
蒲池治久が築いた。
天文年間
(1532〜55年の間)
蒲池鑑盛が蒲池城から居城を移した。
1551(天文20)年 少弐氏らによって佐賀城を追放された龍造寺隆信を柳川城の蒲池鑑盛が保護。
隆信は2年後に佐賀城を奪還した。
1580(天正8)年 蒲池鎮並は龍造寺隆信に背き柳川城に篭城。隆信は嫡男・鎮賢を大将として2万の軍勢で包囲したが攻略できず、300日後に和議を結んだ。
1581(天正9)年 蒲池鎮並が島津氏と交流があることを察知した龍造寺隆信は、蒲池一族を謀殺して滅ぼした。柳川城は鍋島信昌が城主となった。
蒲池鎮並の舅で八代にいた赤星統家は隆信の呼び出しに応じなかったため、人質であった統家の息子と娘が磔にされた。
これらの事で隆信は人心を失っていった。
1584(天正12)年 龍造寺氏に叛旗を翻した有馬晴信を討つため、龍造寺隆信は島原へ出陣。
乱戦の中で戦死した(沖田畷の戦)。
この機に乗じて大友氏が筑後に攻め寄せた。筑前の立花道雪、高橋紹運もこれに加わったが、柳川城を攻め落とすことができなかった。
1587(天正15)年 豊臣秀吉の九州征伐に島津氏が降伏。
柳川城は立花山城を守り切った立花統虎に与えられた。
1600(慶長5)年 立花宗茂は関ヶ原の戦いで西軍についたため領地を没収された。
筑後一国を与えられた田中吉政は柳川城を居城とした。
1620(元和6)年 2代目の田中忠政は嗣子がないまま没したため、田中氏は改易された。
立花宗茂が再び柳川城主となり、明治まで立花氏の居城となった。
1872(明治5)年 原因不明の火災により天守など殆どの建築物が焼失した。
1874(明治7)年 台風で大破した堤防を修復するために本丸の石垣が用いられた。


●地図● 福岡県柳川市本城町

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