 |
立花宗茂
(たちばな むねしげ)
1567年12月18日、大友家重臣・高橋紹運の長男として生まれる。13歳の時に立花道雪に何度も請われて断りきれずその養子となる。18歳の時に島津氏の大軍に包囲されたが撃退し、奪われた2城を奪還する武功を挙げている。豊臣秀吉の援軍(九州征伐の軍)が到着した後も活躍し、筑後柳川に13万2000石を与えられた。このとき秀吉は「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。」と褒め称えた。朝鮮出兵の際にも大活躍し、小早川隆景から「立花の兵3千は他家の兵1万に匹敵する」と称えられた。関ヶ原の戦では西軍についたため改易されたが、徳川家康が熱心に誘い、御書院番頭(将軍の親衛隊長)として陸奥棚倉5千石を与えられた。大坂の陣では徳川秀忠の警固を担当して毛利勝永と交戦。この時の戦功により柳川10万9200石を与えられ、完全復帰を果たした。晩年は徳川家光の相伴衆を務め、島原の乱では昔日の勇姿を見せたという。1642年、江戸柳原の藩邸で死去。享年76。 |