ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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立花山城
2010/1/2記
(2010/1/1訪問)

立花山
 
●概要●
現在の福岡県新宮町、久山町、福岡市東区にまたがる標高367mの立花山山頂にあった。港町・博多を見下ろす要地にあるため大内氏、毛利氏、大友氏により激しい争奪戦が繰り返された。九州制覇目前の島津氏4万の軍勢に対し、当時弱冠20歳の立花統虎が徹底抗戦したのは有名。豊臣秀吉により九州が平定された後は小早川隆景が名島城を築き、その支城となった。その後、黒田長政により福岡城が築かれると役割を終え、廃城となった。現在も山中にわずかながら石垣が現存している。

●歴史●
1330(元徳2)年 豊後国守護・大友貞宗の次男・大友貞載がこの地に城を築き、立花氏を称する。
1568(永禄11)年 立花鑑載が毛利家に寝返ったため、戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理が立花山城を攻撃。3ヶ月に渡る攻城戦の末に陥落し、立花鑑載は自害した。
1569(永禄12)年 戸次鑑連(のち立花道雪)が多々良浜の戦で毛利軍に勝利。戦後、立花家の名跡を継ぎ、立花山城主となる。
1586(天正14)年 立花統虎(のち宗茂)が島津軍4万の侵攻に徹底抗戦。
1601(慶長6)年 黒田長政が福岡城を築いた後、廃城となった。


山頂にある本丸跡

山中に現存する石垣

立花宗茂
(たちばな むねしげ)

1567年12月18日、大友家重臣・高橋紹運の長男として生まれる。13歳の時に立花道雪に何度も請われて断りきれずその養子となる。18歳の時に島津氏の大軍に包囲されたが撃退し、奪われた2城を奪還する武功を挙げている。豊臣秀吉の援軍(九州征伐の軍)が到着した後も活躍し、筑後柳川に13万2000石を与えられた。このとき秀吉は「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。」と褒め称えた。朝鮮出兵の際にも大活躍し、小早川隆景から「立花の兵3千は他家の兵1万に匹敵する」と称えられた。関ヶ原の戦では西軍についたため改易されたが、徳川家康が熱心に誘い、御書院番頭(将軍の親衛隊長)として陸奥棚倉5千石を与えられた。大坂の陣では徳川秀忠の警固を担当して毛利勝永と交戦。この時の戦功により柳川10万9200石を与えられ、完全復帰を果たした。晩年は徳川家光の相伴衆を務め、島原の乱では昔日の勇姿を見せたという。1642年、江戸柳原の藩邸で死去。享年76。

●地図● 福岡県福岡市東区、糟屋郡新宮町、糟屋郡久山町

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