ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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門司城
2011/1/2記
(2011/1/1訪問)

石碑
●概要●
京を追われた平氏が、来るべき決戦に備えて築いたのが始まりとされる。九州の北東端にあり、本州へ向って半島が突き出している企救半島である。その先端には現在、関門橋がある。鎌倉時代に下総親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、豊前国代官職に任じられて下向してきた。門司城を本城として領内に足立・吉志・若王子・三角山・金山の五支城を構え、それぞれ一族を配置した。門司氏はその後350年にわたって北九州の地を支配し続けた。南北朝時代には他家同様、門司氏も両派に分裂し、門司城には北朝方の門司左近将監親尚が、猿喰城には南朝方の門司若狭守親頼の間で骨肉の争いを演じた。その後、大内氏、後に毛利氏が九州での勢力拡大の拠点としたため、大友氏との間で激しい争奪戦が繰り広げられた。豊臣秀吉の九州征伐後も重要な拠点として扱われたが、江戸時代に入り一国一城令によって廃城となった。明治時代に入ると周防灘、関門の両海面制圧を目的に古城山砲台が設置された。その際に城跡の遺構がかなり破壊されたが、石垣や石段などが残っている。現在は和布刈公園として整備されており、本丸跡からは関門橋がよく見える。

●歴史●
1185(元暦2)年 平知盛が家臣の紀井通資に命じて築いた。
1255(建長7)年 下総親房が豊前代官職として入城し、門司氏を名乗るようになった。
1430(永享2)年 秋月春種と原田信朝が大内氏の勢力下であった当城を攻め落とした。
1554(天文23)年 小早川隆景が大友氏から城を奪取し、仁保隆康が城代となった。
1561(永禄4)年 戸次鑑連(後の立花道雪)ら大友義鎮の軍勢・数万人が門司城を攻めたが、毛利氏はこれを撃退している(門司城の戦い)。
1600(慶長5)年 細川忠興が豊前国に入り、城を修築して長岡勘解由を城代とした。
1615(元和元)年 一国一城令により廃城となった。
1892(明治25)年 大日本帝国海軍の要塞が築かれ、多くの遺構が破壊された。


石垣

明治時代の要塞の跡

●地図● 福岡県北九州市門司区門司

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