ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

なぽのブログを検索 なぽのホームページを検索

TopPage > 九州・沖縄 > 福岡県
松山城
2011/1/2記
(2011/1/1訪問)

松山城址全景
 
●概要●
松山城の歴史は古く、740年に藤原広嗣の乱にまで遡る。九州の入口にあり、大内氏や毛利氏と大友氏との間で激しい争奪戦が繰り返されてきた。かつては海に突き出した山城であったが、現在は周囲が埋め立てられており、その面影はない。登城道は南側にあり、よく整備されていて登りやすい。東側と北側は採石のために削られて破壊された部分もあるが、郭や石垣、土塁、石段などの遺構がよく残されている。

●歴史●
740(天平12)年 大宰権帥・藤原広嗣が朝廷に反乱を起こした際に築いたとされる(藤原広嗣の乱)。
940(天慶3)年 藤原純友の乱以降、神田光員が居城とした。
1157(保元2)年 平康盛が神田氏を滅ぼし、平信盛が居城とした。
1185(文治元)年 信盛の子・平吉盛は壇ノ浦の戦いに敗れ、入水自殺を遂げた。
1196(建久7)年 豊前国に下向してきた宇都宮信房(城井氏の始祖)が支配した。
1336年
(延元元、建武3)
後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏が九州に下向。それに従う少弐頼尚が松山城を攻略し、その子・少弐頼房を城主に据えた。
1398(応永5)年 大内氏が北九州に勢力を広げ、重心の杉氏を城主としていた。
大友氏鑑が大友親世に反乱を起こした際、氏鑑方が松山城を攻撃し落城。
城代の杉光治は討死した。
大内氏は松山城を奪還し、杉光治の兄・杉弘信を城主とした。
1556(弘治2)年 毛利氏に帰順した豊前守護代・杉重吉が大友義鎮配下・田原親弘に攻撃され落城。
毛利氏は豊前攻略を開始し、松山城を奪還。天野隆重と杉重良を入れた。
1562(永禄5)年 松山城は大友氏の攻撃を受ける。翌年、将軍・足利義輝の斡旋を受けて和睦し、松山城は大友氏に引き渡された。
その後城主となった長野祐盛は、毛利氏や大友氏が京都郡に侵攻する度に従属先を変えた。そのため、双方から討伐を受けた。
1579(天正7)年 杉重良が毛利氏に反旗を翻したが、高橋元種の攻撃を受けて討死した。
1581(天正9)年 長野祐盛が、同じ毛利方で松山城に籠もる高橋元種を攻撃した。
1586(天正14)年 豊臣秀吉が九州征伐を開始。毛利軍が松山城に入ると、近隣の豪族が競うように帰順した。
1606(慶長11)年 廃城となった。


主郭に上がる石段

主郭に残る石垣

●地図● 福岡県京都郡苅田町松山

より大きな地図で 福岡県の城跡/なぽのホームページ用 を表示
TopPage > 福岡県