ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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丸岡城
2016/2/28更新
2008/6/9記
(2008/3/22訪問)

現存天守

●概要●
12ある現存天守(江戸時代以前に建造された天守を有する城郭)の1つ。重要文化財に指定されている。

柴田勝家の甥・勝豊により、福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い丘に城が築かれた。 往時は本丸を中心に、北側に二の丸を設けて堀で囲み、さらにその周囲に三の丸を配し二重堀で囲んでいた。特に本丸・二の丸部分は最大幅50間(約90m)という広大な五角形を成す堀で囲まれていた。五角形の内堀は現在埋め立てられているが、この内堀を復元する計画が浮上している。現存の二重三層の天守閣は、入母屋造りの屋形に回縁勾欄付きの望楼(廻縁をぐるりと巡らした望楼)を乗せた形式である。これは犬山城や高知城と同様であり、直線的な屋根の破風、太い出格子、黒い板壁などは初期天守に顕著な特徴である。屋根瓦には笏谷石製の石瓦が葺かれている。これは寒冷地であるという気候事情によるといわれる。石垣は「野づら積み」という古い方式で、すき間が多く排水が良いため大雨で崩れる心配がない。天守は昭和9年に国宝保存法(旧法)に基づく国宝に指定されたが、昭和23年の福井大地震で倒壊。1955(昭和30)年に元の用材の8割を使って修復・再建された。現在、城郭一帯には数百本のソメイヨシノが植えられ、桜の景勝地となっている。


天守最上階

丸岡城の復元図

●歴史●
1575(天正3)年 織田信長は越前の一向一揆平定のため、多くの僧兵を擁していた豊原寺を焼き払った。信長はこの恩賞として柴田勝家を越前守護とした。勝家は甥の柴田勝豊を豊原城主とした。
1576(天正4)年 柴田勝豊は、豊原城が山城で不便であることから、丸岡に移り城を築いた。
1582(天正10)年 本能寺の変後の清洲会議により、柴田勝豊は近江国長浜城に移された。
代わって柴田勝家は安井家清を城代とした。
1583(天正11)年 羽柴秀吉との戦により、柴田勝家が北ノ庄城で滅ぼされる。
この地は丹羽長秀の所領となり、青山宗勝が丸岡城主となった。
1600(慶長5)年 青山宗勝の子・忠元はの関ヶ原の戦いで西軍方につき改易。
越前国には徳川家康の次男・結城秀康が入封。
家臣の今村盛次が丸岡城主となった。
1612(慶長17)年 今村盛次は越前騒動に連座し失脚。
本多成重が新たな城主に据えられた。
1624(寛永元)年 結城秀康の子・松平忠直が不行跡により豊後へ配流。
本多成重はそのまま大名に列し丸岡藩が成立。
1695(元禄8)年 4代藩主・本多重益の時にお家騒動が起こり改易。
有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城。
以後、有馬氏6代の居城となり明治維新を迎えた。
1871(明治4)年 廃藩置県により廃城。
天守以外の建造物は全て取り壊された。
1901(明治34)年 残された天守は丸岡町により買い戻され、解体を免れた。城跡は公園となった。
本丸を囲んでいた堀は、大正後期から昭和初期までの間に徐々に埋められ消滅。
1934(昭和9)年 天守が国宝保存法(旧法)に基づく国宝に指定される。
1948(昭和23)年 福井地震のために倒壊。
1950(昭和25)年 文化財保護法(新法)施行により天守は重要文化財に指定。
1955(昭和30)年 倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直し修復された。

●天守の建造年●
現存天守の中でも最古とされるが、それについては犬山城天守との論争がある。柴田勝豊の建造である場合1576年となるが、慶長期の特徴を多く見ることができ、建築史の観点では1596年以降の築造若しくは改修による姿ではないかという説もある。

●短い手紙●
天守の石垣の側に有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の書簡碑が建っている。これは初代丸岡藩主・本多成重(幼名仙千代)の父・本多作左衛門重次が1575(天正3)年、長篠の戦いの陣中から妻に送った手紙文を刻んだ石碑である。この手紙は実に短いものだが、簡潔でわかりやすい名文として知られている。

●伝説「雲の井の大蛇」●
越前一向一揆平定後、柴田勝豊は豊原からここに移り、丸岡城を築城した。豊原は一向衆徒の拠点であり、一揆の残党が度々攻撃を仕掛けてきた。 その度ごとに「雲の井」の井戸から大蛇が現れ霞を吐いて城を隠し、危機から救った。 現在でも春先にすっぽりと霞に覆われることがある。

●伝説「人柱お静」●
築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるため人柱を入れることになった。その人柱に選ばれたのが、二人の子を抱え苦しい暮らしをしていた片目のお静であった。お静は子の一人を侍に取り立ててもらうことを約束され、人柱になることを決意し天守閣の中柱の下に埋められた。それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。しかし、その勝豊は他に移封され、お静の子は侍にしてもらえなかった。お静の霊はこれを恨み、年に一度の藻刈りをやる卯月の頃になると春雨を降らせ、堀は水であふれた。人々は"お静の涙雨"と呼び、小さな墓をたて霊をなぐさめた。「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙」という俗謡が伝わっている。

●100名城スタンプ設置場所●
天守入場券売場
開場時間 8:30〜17:00(入場は16:30まで)
※年中無休
入館料金 大人300円、小中学生150円

●地図●

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