ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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東金城
2011/5/15記
(2011/5/14訪問)

八鶴湖越しの遠景

●概要●(現地案内板)
東金城は九十九里浜より約9km上がった下総台地の崖上の標高72〜74mの地点に築造された「平山城」である。丘陵最上部に5つの郭を配し、その下に腰曲輪をめぐらせ、さらに四方に伸びる尾根上や斜面に多くの平場・空堀・竪堀・土塁等の施設を適所に配している。この城は、酒井小五郎定隆によって大永元年(1521年)に築かれ天正18年(1590年)7月までの約70年間、酒井氏5代(定隆・隆敏・敏治・敏房・政辰)の居城であったと云われている。また、他説として、千葉一族によって築かれた鴇ヶ根(峰)城に、浜式部少輔春利が居城し、その後酒井氏が改称したという説もある。城跡であると推測される地域は広く、北麓は家老・古川出雲守邸、南麓(現台方地区公民館)には家老・椎名豊前守邸があったと思われる。そして山の中腹には酒井氏の菩提寺である鳳凰山本漸寺がある。東金市の基礎を築いた酒井氏の居城であったことや、市内の寺が定隆によって法華宗に改宗されたことなど、東金市の歴史を語る上で、貴重な文化財であると言える。

●歴史●
1521(大永元)年 土気城主・酒井定隆が3男・隆敏とともに入城
1590(天正18)年 豊臣秀吉に通じていた正木氏に攻められ落城
1613(慶長18)年 徳川家康が鷹狩り用の御殿として東金御殿を建造
1671(寛文11)年 御殿が廃された


城址碑(本漸寺境内)

東金古城之図(クリックで拡大)

●上総酒井氏●
 上総酒井氏の祖は酒井定隆だが、出自については、新田氏説、上杉氏説、千葉氏説、波多野氏説、土岐氏説などがあり、どれも決定的な証拠がない。古文書では定隆は足利氏一門であり、遠江出身の智勇兼備の武将であったが、領地が少ないことを不満として関八州を手に入れようと房総の地に赴いた、とされる。定隆は里見氏の援助を得て下総中野に城を築き、土気城を攻略して1488年に移った。1521年に隠居して嫡子・定治に家督を譲り、3男・隆敏とともに東金に移った。この時に上総酒井氏は土気酒井氏と東金酒井氏に分かれた。1538年の第一次国府台合戦では両家とも小弓公方側として戦ったが、その後は北条氏側に転じ、里見氏と戦っている。だが、上総の地は北条氏の勢力圏ではあったが、地理的には里見氏の方が近く、状況に応じてどちらに味方するのか一定しないことが多かった。1564年の第二次国府台合戦では北条氏と里見・上杉連合軍が対峙した。この時両家は北条氏側につく予定であったが、出陣が遅れたことを「不忠之仁」と疑われた。そのため両家は里見側に転じ、追撃する北条勢を防ぎ、敗走する里見義弘を助けた。戦後、北条氏は両家に降伏するよう働きかけ、東金酒井氏は応じた。だが、土気酒井氏は「不忠之仁」と疑われたことや重臣を討たれたこと、自身も戦傷を負ったことなどからこれに応じず、北条氏から軍事的圧迫を受けることとなった。北条氏は土気城を何度も攻めたが、土気酒井氏は頑強に抵抗し続けた。この時は両家が直接戦っているが、地元の記録からは抹消されているという。その後、東金酒井氏も土気酒井氏に同調し、1576年に土気城、東金城とも北条氏の大軍に包囲された。この時、頼みの里見氏は援軍を出さなかった。そのため孤立無援となった両酒井氏は北条氏に降伏し、以後は里見氏との合戦で先陣を務めた。そして1590年、豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅ぼされると、両酒井氏は運命を共にすることになる。領地を追われた両家は没落したが、後に徳川家康に見出され、旗本として存続した。

●地図● 千葉県東金市東金
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