ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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土気城
2011/5/15記
(2011/5/14訪問)

クラン坂

●概要●(現地案内板)
土気城は、平安時代の鎮守府将軍であった、大野東人が東北地方の蝦夷に対する軍事的拠点の1つとして築いたものと伝えられている。その後、1488(長享2)年中野城主であった酒井定隆がこの城を修復して入城し、以後、5代100年に亘って酒井氏の居城として上総の地に君臨した。城は鹿島川や村田川の水源となっている標高90mを超える台地上に、その急峻な地形を利用して築かれ、難攻不落の名城として知られていたが、1590(天正18)年豊臣秀吉の房総攻めの際に破れ、廃城となった。本丸、二の丸などの城の中核となる部分は現在、日本航空研修センターの敷地になっており、部分的な改変はあるものの、全体の保存状態は良好で、戦国時代の城郭の形態をよく残している。

●歴史●
神亀年間(724-729年の間) 大野東人が東北地方の蝦夷に対する軍事的拠点として築いたとされる。
室町時代 千葉氏の支配となり、土気氏が当地の地頭職を務めた。
1204(元久元)年 畠山重忠が安房から上総国に入り、土気城を本拠とした。
1487(長享元)年 中野城主・酒井定隆が畠山重康を攻めて土気城を奪取。以後約100年の間酒井氏がこの地を治める。
1564(永禄7)年 第二次国府台合戦で土気酒井氏は出陣が遅れ、北条氏康に疑われたことを知ると里見義弘に味方した。その後、毎年のように北条軍が攻め込んだが、酒井胤治はこれを撃退した。
1576(天正4)年 酒井胤治は息子・康治を人質に出して北条氏に降伏した。
1590(天正18)年 豊臣秀吉による小田原征伐後、土気酒井氏も領地を召し上げられ廃城となる。


三の丸 畑が広がる

貴船神社 土塁上にある

本丸にある日本航空の研修施設 閉鎖されている

土気城跡概略図(クリックで拡大)

●上総酒井氏●
 上総酒井氏の祖は酒井定隆だが、出自については、新田氏説、上杉氏説、千葉氏説、波多野氏説、土岐氏説などがあり、どれも決定的な証拠がない。古文書では定隆は足利氏一門であり、遠江出身の智勇兼備の武将であったが、領地が少ないことを不満として関八州を手に入れようと房総の地に赴いた、とされる。定隆は里見氏の援助を得て下総中野に城を築き、土気城を攻略して1488年に移った。1521年に隠居して嫡子・定治に家督を譲り、3男・隆敏とともに東金に移った。この時に上総酒井氏は土気酒井氏と東金酒井氏に分かれた。1538年の第一次国府台合戦では両家とも小弓公方側として戦ったが、その後は北条氏側に転じ、里見氏と戦っている。だが、上総の地は北条氏の勢力圏ではあったが、地理的には里見氏の方が近く、状況に応じてどちらに味方するのか一定しないことが多かった。1564年の第二次国府台合戦では北条氏と里見・上杉連合軍が対峙した。この時両家は北条氏側につく予定であったが、出陣が遅れたことを「不忠之仁」と疑われた。そのため両家は里見側に転じ、追撃する北条勢を防ぎ、敗走する里見義弘を助けた。戦後、北条氏は両家に降伏するよう働きかけ、東金酒井氏は応じた。だが、土気酒井氏は「不忠之仁」と疑われたことや重臣を討たれたこと、自身も戦傷を負ったことなどからこれに応じず、北条氏から軍事的圧迫を受けることとなった。北条氏は土気城を何度も攻めたが、土気酒井氏は頑強に抵抗し続けた。この時は両家が直接戦っているが、地元の記録からは抹消されているという。その後、東金酒井氏も土気酒井氏に同調し、1576年に土気城、東金城とも北条氏の大軍に包囲された。この時、頼みの里見氏は援軍を出さなかった。そのため孤立無援となった両酒井氏は北条氏に降伏し、以後は里見氏との合戦で先陣を務めた。そして1590年、豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅ぼされると、両酒井氏は運命を共にすることになる。領地を追われた両家は没落したが、後に徳川家康に見出され、旗本として存続した。

●地図● 千葉市緑区土気町

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