ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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大多喜城
2016/3/2更新
2009/7/26記
(207/5/26訪問)

復元天守

●概要●
上総武田氏の一族である真里谷信清が里見氏の侵略に備えて1521年に根古屋城を築いたのが始まりとされる。武田朝信は里見氏の将・正木大膳亮時茂に上総苅谷原で大敗し自害。正木時茂は根古屋城に入城し、東上総は里見氏の勢力下に入った。時茂は北条氏との戦いで勇名を馳せ「鬼大膳」といわれた。3代目・正木時尭は、徳川家康の名将・本多忠勝と戦い落城。時尭は伯耆倉吉に移り、正木氏は滅びた。家康は忠勝に対し大多喜の地10万石を与えた。忠勝は根古屋城が近代戦にそわないと考え、その西南1.5kmの地を選定し築城を願い出た。家康は許可し、近世大多喜城が築城された。江戸時代には大多喜藩が置かれていた。建造物としては、二の丸跡地にある大多喜高校に二の丸御殿薬医門が現存している。

●歴史●
1521(大永元)年 真里谷信清が根古屋城を築いた。
1544(天文13)年 里見氏の武将・正木時茂によって真里谷氏は城を奪われた。以後、時茂・信茂・憲時の正木氏3代により上総国支配の拠点とされた。
1581(天正9)年 里見義頼との内紛により正木憲時が殺害され、里見氏の代官が派遣された。
1590(天正18)年 里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収される。上総国は徳川家康に与えられ、本多忠勝が城主となった。忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行った。
1600(慶長5)年 本多忠勝が伊勢桑名に転封。次男・忠朝が5万石を与えられて城主となった。
1615(元和元)年 忠朝が大坂夏の陣で戦死。甥の本多政朝が後を継いだ。
1617(元和3)年 政朝は播州龍野に転封。阿部氏が城主となった。
1619(元和5)年 藩主・阿部正次の転封により大多喜藩は廃藩。城は荒廃した。
1671(寛文11)年 阿部正春が1万6000石で入城。「一重の塀もないありさまで、門や櫓などもない」荒廃した状態で支配が行われていた。
1703(元禄16)年 相模甘縄から松平(大河内)正久が2万石で入城。以後、松平(大河内)氏9代の居城として明治維新を迎える。
1842(天保13)年 天守が焼失。
1844(天保15)年 天守代わりに二層の「神殿」が建てられた。
1870(明治3)年 城は取り壊され、本丸も削平された。
1975(昭和50)年 城跡に天保6年の図面を基にして天守が再建された。
 
本多忠勝
(ほんだ ただかつ)

安祥松平家最古参の譜代の本多氏で、1548年に愛知県岡崎市で生まれる。幼い頃から徳川家康に仕え、桶狭間の戦の前哨戦である大高城兵糧入れで初陣。19歳にして同年齢の榊原康政らとともに旗本先手役に抜擢され、与力50騎を付属された。武田方より「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」と賞賛されたことが有名。小牧・長久手の戦では豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛された。家康が関東に移封されると上総国大多喜を与えられる。関ヶ原の戦では家康本軍に従軍し、諸大名に書状を送って東軍方につける工作にも活躍。戦後は伊勢国桑名10万石(一説に15万石)に移された。生涯において参加した合戦は57回に及んだが、かすり傷一つ負わなかったと伝えられている。晩年は、戦乱の収束により文治に優れた者が台頭したため、不遇であったと言われる。1609年、嫡男・忠政に家督を譲って隠居。1610年10月18日に桑名で死去した。享年63。
 
●千葉県立中央博物館大多喜城分館●
開館時間 9:00〜16:30(入館は16:00まで)
休館日 毎週月曜日(休日の場合は開館し、翌平日に休館)
年末年始(12月28日〜1月1日、1月4日)
入館料 一般200円、高・大学生100円
中学生以下、65歳以上は無料

●地図● 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜
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