ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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国府台城(別名・市河城)
2011/5/19記
(2011/5/14訪問)

空堀と土塁

●概要●
国府台城は江戸川に面した河岸段丘上端にあった。扇谷上杉家の家宰・太田道灌が臼井城の千葉孝胤を攻めた際に築いたのが始まりとされる。地理的に関東各勢力の境界にあったため、数多くの戦いの舞台となった。大きなものでは1538年の第一次国府台合戦と1563年から1564年にかけて起きた第二次国府台合戦がある。いずれも北条氏と里見氏が関係する。北条氏滅亡後に関東に入った徳川家康は、江戸城が丸見えであるとの理由から国府台城を廃城とした。現在は城地の南半分は国府台病院の敷地となったため遺構はほぼ消滅しているが、北半分は里見公園として里見公園として整備され、土塁や堀、櫓台と見られる高い土盛りなどがみられる。周囲はかなり宅地化されながらもかなりの遺構が残っている。

●歴史●
1478(文明10)年 扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が臼井城の千葉孝胤を攻める際に築いた。
1538(天文7)年 小弓公方・足利義明が北条氏綱と雌雄を決するため挙兵し、この地で対陣した。渡河した北条軍に攻めかかった足利義明は突撃の末に戦死。房総勢は退却した(第一次国府台合戦)。
1563(永禄6)年 上杉謙信が越山し厩橋城に着陣した。太田氏や里見氏に兵糧調達を命じたが、北条氏康は2万の軍勢で出陣し、国府台城周辺で里見・太田軍と戦闘となった。序盤は里見・太田軍が優勢であったが、油断した隙を突いた北条綱成に急襲され、里見・太田軍は壊滅し退却した(第二次国府台合戦)。
1590(天正18)年 関東に入った徳川家康により廃城となる。


至る所で土塁が見られる

櫓台とみられる土盛り

夜泣き石

明戸古墳の石棺

●第一次国府台合戦●
 足利義明は古河公方・足利成氏の子であったが、幼い頃より仏門に入り出家していた。だが、父・成氏と兄・高基が不仲となると突然還俗し、足利義明と名を改めた。この動きに真里谷信清が乗じ、原氏の本拠地・小弓城を奪って義明を「小弓公方」とした。しかし、義明ただ担がれるだけの公方ではなかった。信清の死後は真里谷氏の家督争いに介入して完全に自らの配下としただけでなく、里見氏ら有力者を味方につけて瞬く間に勢力を拡大していった。一方、北条氏は古河公方と小弓公方との争いには当初関わらず、相模から武蔵に勢力を拡大しつつあった。だが、小弓公方が国府台城を手に入れる頃、北条氏は対岸の葛西城まで勢力を伸ばしており、直接的に利害関係が発生するようになってきていた。そこで、北条氏は古河公方や千葉氏と手を組んで小弓公方との対決姿勢を見せ始めた。
 1538(天文7)年10月、小弓公方・足利義明は里見義堯ら1万余の軍勢で古河公方の拠点・関宿城を攻撃するために北上。国府台城に着陣した所で北条氏綱の軍勢2万騎と対陣した。この時、義明と里見氏は作戦面での意見の食い違いがあったとされ、里見氏は退却に有利な市川側に陣を移した。足利義明は松渡の渡しから江戸川を渡ってきた北条軍に突撃しで討死したため、房総勢は退却した。
 義明の討死により小弓公方は滅び、北条氏は勢いに乗って下総北部にまで一気に勢力を拡大した。一方、意見の食い違いから義明を見殺しにするかのように陣を引き上げた里見氏も、空白地帯となった上総を支配下に収めて勢力を拡大した。

●第二次国府台合戦●
 1563(永禄6)年、江戸城主・太田康資が北条氏への不満から上杉謙信への寝返りを図って失敗し、同族の太田資正のもとへ逃げ込んだ。謙信から資正・康資救出を依頼された里見義弘は出陣し、1月4日に国府台城に入った。千葉氏は北条氏康に援軍を求め、北条軍は2万の軍勢で出陣した。
 1月7日、北条軍は江戸城を出て里見軍を攻撃するが、先陣の遠山綱景・富永直勝が本隊の北条綱成隊よりも先行して江戸川を越えて国府台を攻撃。これは里見軍に返り討ちに遭ってしまう。これにより千葉軍と連携して里見軍を挟み撃ちにする計画は大きく狂った。
 この勝利に気をよくした里見義弘は、正月早々の出陣であった事から兵士たちに配慮し、酒を振舞った。だが、北条軍は撤退したと見せかけて、翌日未明に江戸川を渡って夜襲をかけた。酒宴の後の里見軍は大混乱に陥り、また、里見軍の主力・土岐為頼が北条氏の工作により裏切って戦場を離脱し、重臣・正木信茂が戦死。義弘は重臣・安西実元が身代わりとなるなど、壊滅的な打撃を受けた。
 これにより里見氏は下総・上総の支配権をほとんど失い、本拠地である久留里城まで占拠された。また、太田資正も息子・氏資によって居城の岩槻城を追われるなど、北条氏の大勝となった。上杉謙信軍は倉賀野城の後詰や小田氏治の離反などで撹乱され、主戦場である国府台に到達できずにいた。

●地図● 千葉県市川市国府台
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