ドライブ&ツーリングでどこへ行こう・・・
そんな時お城をターゲットに走ることを思いつきました。
そして気が付いたら全国津々浦々(笑)
これまでに訪問したお城を紹介します。

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横手城
(別名・朝倉城、阿櫻城、韮城)
2016/3/6更新
2008/6/27記
(2007/9/23・2008/8/3訪問)

模擬天守
●概要●
別名は朝倉城、阿櫻城、韮城など。朝倉山を包むように流れる横手川を天然の堀とし、背後は険しい奥羽山脈に続く要害の地である。石垣を用いず、敵が這い登ることができないよう韮を植えていたため、韮城とも呼ばれていた。現在は横手公園となり、3層の天守閣様の展望台が建ち、郷土資料館となっている。元々天守は無かったが、横手音頭に歌われたり、かまくら祭りでたびたび紹介され、横手のシンボルとなっている。


●歴史●
1554(天文23)年頃 小野寺輝道によって築かれた。
1577(天正5)年 小野寺輝道は沼館城から横手城に本拠を移した。
1601(慶長6)年 関が原の戦後、西軍側とみなされた小野寺義道が津和野へ配流された。
1602(慶長7)年 佐竹義宣が秋田に入封。久保田城の支城として佐竹氏一門の戸村氏などを城代とした。
1868(明治元)年 戊辰戦争で佐竹氏は奥羽越烈藩同盟を脱して新政府側についた。そのため、仙台藩、庄内藩の攻撃を受け落城。城は廃墟となった。
1965(昭和40)年 二の丸跡に三層の模擬天守が築かれた。

●本多正純配流の地●
徳川幕府創業の功臣・本多正純、正勝父子は、2代将軍・徳川秀忠暗殺の疑いをかけられ、佐竹氏へ預かりの身となった。(宇都宮城釣天井事件)
佐竹氏は父子を横手城代・須田美濃守盛秀に預け、三の丸の居館で暮らした。正勝は1630(寛永7)年に37歳で、正純は1637(寛永14)年に73歳で病没。居館の近くの山裾に墓碑が建てられた。
本多正純(ほんだ まさずみ)

1565年、本多正信の嫡男として生まれる。父・正信は三河一向一揆で徳川家康に反逆し、それによって三河を追放されていたが、正純は大久保忠世の元で母親と共に保護されていた。父が家康のもとに復帰すると、共に家臣として仕えた。父と同じく智謀家で重用された。関ヶ原の戦いの後、家康の命令で石田三成の身柄を預かっている。家康が将軍職を三男・秀忠に譲って二元政治が始まると家康を補佐し、父・正信が両者の調停を務める形をとった。正純は家康の懐刀として辣腕を振るい、権勢を有するようになる。1612年12月22日に築城間もない駿府城が火災で焼失したが、再建されるまでの間、家康は正純の屋敷で暮らしている。1614年には大久保忠隣を失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでになった。しかし、1616年に家康と正信が相次いで没した後は秀忠の側近となり、年寄(後の老中)に列せられたが、やがて秀忠や秀忠側近と対立するようになる。1622年8月、出羽山形の最上氏易の際、正純が山形城受取りの為に赴いている最中に11か条の罪状嫌疑を秀忠から突きつけられて所領を召し上げられた。先代よりの忠勤に免じて出羽5万5000石を与えるという代命を受けたが固辞。これが秀忠の逆鱗に触れて改易され、出羽国横手に流罪となった。正純の失脚により、家康時代、その側近を固めた一派は完全に排斥され、土井利勝ら秀忠側近が影響力を一層強めることになる。1637年3月10日、正純は配所の横手で死去した。享年73。

●案内●
横手城展望台(模擬天守)
開館期間 4月〜11月および2月の「かまくら」期間中
開館時間 9:00〜16:30(「かまくら」期間中は変更)
入館料金 100円、中学生以下無料
(ふれあいセンターかまくら館、後三年合戦金沢資料館、石坂洋次郎文学記念館も入館可)

●地図● 秋田県横手市城山町

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